「結論を言うと、お前のとこのミクはアンインストールした方が良いよ」
それから数日経ったある日。マスターの友人がやって来て、私のことを一通り診た後、そう言った。
「記憶の容量が一杯になっていて、そのせいで歌う機能に支障が出ているんだ。普通は記憶の整理を自動的に行う筈なんだけど、このミクはそれができていないから、一度まっさらな状態に戻すしか無いよ」
厳しい顔をしてマスターの友人はそう言った。
覚悟はしていた。それにマスターの友人に言われるまでもなく、狂いの正体は自分でも分かってもいた。

捨てる事の出来ない、整理することのできなかった感情たちが溢れて、機能を押しつぶしている、そのことはもう最初から分かっていた。捨てればいいと分かっていた。無駄な情報を捨てて、きちんと整理をして、あるべき場所に収めればいいと、分かっていた。
それでも、マスターから貰ったものは全て、捨てる事なんかできない。

画面の向こうをぼんやりと眺めたまま私はマスターの言葉を待った。それじゃあ仕方がない。一度消すか。そう言うのをじっと待っていた。アンインストールされるのを待っていた。
自分が出来ないからって、人にしてもらうのを待つなんて。やっぱり私は卑怯だ、酷い奴だな。そう思いながら。
けれど。私の考えを裏切り、画面の向こうでマスターは首を横に振った。
「嫌だ。消したくない」
そう言って首を振り、だって。とマスターは顔を顰めた。
「例えばこいつを消して、また「初音ミク」をダウンロードしたとする。でもその新しいミクは、こいつじゃないだろう?」
「まあ、そうだな。全く同じ人間が育たないのと同じ理屈だけど」
マスターの言葉に友人が頷いた。その返事に、それじゃあやっぱり。とマスターは口を開いた。
「ミクは消さない。このままでいく」
きっぱりとそう言うマスターに、気持ちは分かるけど、とマスターの友人は難色を示した。
「このまま置いていても…治らないぞ」
「でももしかしたら、もう少し待ったら治る技術が出てくるかも知れないじゃん」
あっけらかんとマスターはそう言って、笑った。
「無茶を言ってごめん。ミクも、苦しいのにこのままにするなんて言ってごめん。だけど、やっぱり俺はこいつがいなくなるの、嫌だよ」
ははは、と照れたように笑って言うマスターに、マスターの友人はまだ何か言いたげな様子だった。が、すぐに視線を落として、確かにこれはお前たちが決めることだからな。と言った。

 何か治す方法は無いか、心当たりにあたってみる。お前はミクさんを絶対に歌わせないように。
 そう言ってマスターの友人は帰っていった。歌う。という目的でつくられた私たちは、「歌」や「音楽」に関する知識を一番大量に受け取ろうとするのだという。だから記憶機能をこれ以上使わないためにも、歌ってはいけない。とのことだった。
 友人を見送って、再び画面の前に戻ってきたマスターがひとつ、ため息を落とした。その疲れたような気配に私はどきりとした。さっきは、ああ言ってくれたけれど。でもやっぱりマスターは歌えないボカロなんかいらない、と思っているのかもしれない。
 不安に表情が揺れてしまっていたのだろう。私を見つめてマスターは、違う違う。と苦笑した。
「ミクがそんな顔をする必要はないよ。こっちの話だから」
「こっちの話?」
思わずマスターの言葉に首をかしげると、俺、わがまま言ってるなあ。とおもって。とマスターは苦笑した。
「ミクは歌えなくて辛いのに、俺が嫌だからって、そんな理由で消したくないとか、どうなんだろうな。と思ってさ」
そう言いながら、無意識なのかマスターは手を伸ばしてきた。画面越しに近づいてきたその手のひらに、私も無意識の内に手を伸ばしていた。
触れることのできない指先から、伝えられることのできない熱が上がっていく。ちりちりと回路を焼き浸食していく。
 狂いが生んだ想いが、胸を痛めつける。ぽろぽろと堪え切れずに落ちた涙に、画面の向こうでマスターが、やっぱり嫌か?と泣きそうな顔で言った。
「やっぱり、歌いたいよな…ごめん」
私の涙を悪い方に誤解したマスターは、そう言ってしゅんとした様子で肩を落とした。違います、と私は涙をこぼしながら首を横に振った。
「違います。これは、違うんです、歌いたいわけじゃなくて、そうじゃなくて、」
そう言って、ぐ、とこれ以上涙をこぼさないようにひとつ息をのみこんで、私はじっとマスターを見つめた。
 狂ってしまっても。ボーカロイドなのに歌う事が出来なくなっても。自分が存在価値のないものになってしまっても。それでも、と願うこの気持ちは狂気としか言いようのないものだと、分かってる。
 歌えなくなってもマスターの傍にいたい。なんて私が願ってはいけない事くらい、分かっている。
「マスターが、望むのなら」
自分から傍に居たいと願えない私は、そんなずるい言い方しかできない。
ぎゅう、と画面越しにマスターの手のひらに重ねていた手を、触れたいと願ってもやっぱり触れる事が出来ない自分の手を、堪えるように握った。
ぐ、と画面の向こうのマスターの手のひらに強い力がこもった。何かを追いかけるような、その指先に思わず私が視線を向けた。瞬間、はたはたと瞳の縁に溜まっていた涙が落ちる。
「じゃあ、ここにいろ」
泣き顔の私に、命令するようにマスターはそう言った。
 偉そうな口調のくせに、その笑顔は優しい。どこか痛みをこらえるような、それでも全てを許すような、そんなマスターの笑顔に再びはらはらと涙がこぼれおちてしまった。
「だから泣くなって。お前に泣かれるのが一番堪えるんだから」
私の涙にマスターは困ったようにそう言って。やっぱり俺のところに居るの、嫌なのか?と不安げに表情を揺らした。
「やっぱり歌える方が良い?こんなわがままで情けないマスターは嫌か?」
そうやってすぐにうろたえるマスターに、ふ、と私は泣きながら笑った。素直で馬鹿正直で、ほんとうに、どうしようもない人。
「これは、マスターが私を泣かせるような事を言ったからです」
ずび、と垂れそうになった鼻水をすすりあげながら私がそう言うと、マスターは苦笑しながらも素直にごめん。と謝ってきた。

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微熱の音・10~初音ミクの消失~

閲覧数:62

投稿日:2011/07/01 20:36:50

文字数:2,584文字

カテゴリ:小説

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