10.かみ合わぬ二人#長い……♭ライム
リズムよく時を刻む音が部屋に響く中、少年と少女はいまだ声を発することなく、
お互いに見合っている。
少年は先に発した言葉を置き去りにして、ある想いを頭によぎらせていた。
――かわいい女の子だな……
名も知らぬ突然の来訪者に対して、普通想うような事ではなかったが、
不思議と少女に対して警戒心はわいてこなかった。
しかし、冷静になってみると、やはり不審者とまではいかないまでも、
名も知らぬ女の子が部屋の中にいるというのは、どうも落ち着くものではない。
少年は、この沈黙を打破するためにも、意を決して再度名を尋ねた。
「……ミク」
通算二度目の質問に対して、ようやく少女は静かに自分の名を答えてみせた。
しかし、その後再び部屋は沈黙を取り戻してしまった。
少年の目はふわふわと泳いでいる。
再び訪れた沈黙は、少年にとって、先程よりも耐えがたいものになっていた。
「そ、そうだ、僕の名前を教えてなかったね?
僕の名前は、S・セル・テラ・ライトニアっていいます」
とりあえず何かを言わないとと、聞かれてもいないのに少年は早口で自らの名を語った。
そう言って、少年は少女の方を見ながら、ごくりと唾をのんだ。
「長い……名前……」
今度はそう間を置かずに少女が答えたが、相変わらず一度に発する言葉は、一単語を超えない。
しかし、ようやく会話らしきものが成立したように感じた少年は、
その流れを崩すまいと、間を置かずに、次の言葉を発していた。
「そ、そうかなぁ? 僕は今までそう思わなかったけどな。
お父さんもお母さんも、僕より長い名前だし……。でも……」
言葉を少し詰まらせて、ちらりと少女の方を見てみる。
「でも、そう思うなら好きに呼んでいいよ? 君の名前みたいに短く……」
突然の少年の提案を聞き、ミクは再び目を閉じてしまった。
熟考しているのだろうか? 少年には少女が何を考えているのか、汲みとることはできない。
相手の答えを待っている間の静寂は、少年にとってそれほど苦痛ではなかった。
長い沈黙とわずかな会話、二人の奇妙なやり取りは、もはやあたり前のものになっていた。
少女が目を閉じている間、少年はそれまで照れてよく見ることのできなかった少女を、
まじまじと頭から足の先まで眺めてみた。
実は、少年にとって同世代(と思われる)の女の子を見るのは、生まれて初めてのことだった。
少年は理由あって、生まれて一度も家の敷地の外に出たことがなかった。
いつも母親、父親含め、大人たちばかりに囲まれて生活していた。
――僕より少し年上なのかな?
――そういえば……なんで女の子がここにいるんだろ?
などと、少女の顔をぼやっと眺めながら考えていると、突然少女のまぶたがバチッと開いた。
少年の目に、吸い込まれそうな碧色が入って来た。
とっさに目をそらせたいところだが、少年の目は、少女の目を見つめたまま動かせずにいる。
心臓がにわかに慌ただしくリズムを刻み始め、
二人の間の正確な距離感もわからなくなるような奇妙な感覚に襲われた。
脳内を意味も理解する暇もなく、言葉が超高速で流れていき、回路はショート寸前である。
これは、なにも特別なことではなく、一般的によくある緊張の副産物であるが、
少年には、自分に何が起こっているのか、深く理解することはできなかった。
「ライム……」
少年の耳に突然届いた少女の声により、少年は我を取り戻した。
心臓のリズムも次第に落ち着きを取り戻し始めた。
そして、少年は自分の耳に届いた言葉の意味をようやく理解するに至った。
「ライム…… ああ、ライムね……。僕の名前……。そう呼んでくれるの?」
冷静という状態とは程遠い様子の少年だったが、たどたどしい言葉で少女にきり返した。
その言葉を受け取り、少女は首を縦に振った。
「ああ、それじゃ僕は……」
ライムの脳内を、彼が考えうる女性の呼び方がいくつも駆け抜ける。
しかし、どれも今目の前に立っている女の子に対して、当てはまらないような気がした。
少年は口を「あ」の形にしたまま、固まっている。
目の前の女の子が、期待のまなざしで見つめているような気がする。
「あ、えっと…… それじゃ…… み、み……」
少年が意を決して女の子の名前を呼ぼうとしたその時、
カチャリと音を立て、少女の横にあるドアが静かに開いた。
部屋にこれまた見たことのない老人が、一人の男性を連れ立って入って来た。
ほっと安心したような、少し残念なような、そんな気持ちがする。
老人は、その男性と何やら話しながら部屋に入って来たが、
少年とピアノに目線を向けると、そのまま目線を固定させることなくスライドさせ、
ちょうどドアの陰になる所に偶然立っていたミクを見つけた。
「おお、こんな所におったのか……。心配したんじゃぞ?」
急に飛びついたりすることはなく、ゆっくりとミクの方に近づいていく。
さすがのトラボルタも、他人の前では少しばかり大人の対応を心掛けているようだ。
大きな部屋ではあるが、いつも一人だけのこの部屋に、
四人もの人間が入っていることは、なかなか珍しいことであった。
「それじゃ、トラボルタさん、仕事内容は先程説明したとおりです。
後で、主人もここにお寄りになられると思います」
この家の執事である身なりの整った男性は、そう言い残すと手慣れた身のこなしで、
音もたてずに部屋から出て行った。
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