世界が甘い香りで満ちているような時期の事だった。電子の世界の中でもチョコレートは存在するし、2月14日はバレンタインデーという意識だってきちんとある。ボーカロイドにとっては更にKAITOの誕生日という意味がそこに足されるけれど。

バレンタインが過ぎてからしばらくしたある日。ここを訪れた「ミク」が、知り合いの人たちが微妙な感じでバレンタインを過ごしたのだ、という話をした。瞳を輝かせて喋る「ミク」の話の内容によると、バレンタインを前にその男女は微妙な関係になり、しかし結局女性はチョコを渡さなかったのだという。
「も―ね。結局、チョコ渡さなかったんだよ。勿体ないと思わない?折角のイベントなんだから乗っかるべきだと思うんだけど。このもやもやしている瞬間って言うのも恋愛の醍醐味なのかな?」
浮き立つ声でそう言う「ミク」に、私は曖昧な笑みを浮かべた。
 もやもやするその気持ちは、楽しいだけじゃないよ、綺麗なだけじゃないよ。そう教えてあげようかな。と皮肉な思考が浮かんで、けれどそれを口にしてしまったら、またひとつ、先へ進んでしまうから言えずにいた。
 口には出さない。けれど私は知っている。
 もやもやと相手の事を考える、その瞬間。楽しいだけで終わってくれない。痛みも苦しみも醜い感情も、そこには存在している。胸の内に咲く花は傍から見たら美しいかもしれない。けれどその美しい身の内にはどろどろと濁りきった毒が含まれているのだ。毒は体中を浸食し、その感情を美しいものだけで終わらせてくれない。
 知らないところでなにをしているの?どこに行っていたの?なんで疲れた顔をしているの?私がいるのにため息をつくの?ずっと、なんて信じていいの?
あなたの横には、私はいない。
 あなたしかいない私は、歌う事が出来なくなった私は、それでも、
「ミクさん?」
連なる思考を「ミク」の声が断ち切った。
 はたと我に返り、私はゆっくりと焦点を目の前の現実へ合わせた。はあ、とひとつため息をついて、なんでもないよ。というように首を横に振った。
 大丈夫だよ。というように微笑んで。私が小さくうなずくと「ミク」は少し心配そうな視線を向けてきた。
「ミクさん疲れてる?私のお喋り、うるさかった?」
そう言って、ぎゅう、と私の手を握りしめてきた。まるで私の内側で進む崩壊をなんとか引き留めようとするかのような、そのしぐさに胸の辺りがゆっくりと穏やかに鎮まっていく。
「何でもないよ」
そうカサカサの声で言って笑って。そんな私に「ミク」はそれでもほっとしたように微笑んだ。
 無理はしないでね。長く存在していればきっと何か手立てが見つかるはずだから。幼い真っ直ぐな優しさを持つ「ミク」の気持ちが心に優しい。ともすれば熱に浮かされることに倦んできた部分がその静かな優しさに縋りたくなる。
「ミク」の存在に縋って。心を静めて。胸の内で咲く花をむしり落として。そうやって全てに整理をつければ、まだ間に合うかもしれない。
そんな事を少し思った。
けれど、思ったのは一瞬だけ。もう間に合わないと、そんな事はどうやっても無理だと、身体の内側中から一斉に否定の声が上がったから。

 先日のバレンタインの日。マスターがチョコを貰ってきた。

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微熱の音・12~初音ミクの消失~

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投稿日:2011/07/01 20:39:55

文字数:1,360文字

カテゴリ:小説

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