2009.09.24 02:34

眠れなくて、居間で本を読んでいた私の前に、彼が現れた。プライベートの時間は絶対に電子ピアノの前から離れない彼が目の前にいるのを、私は怪しんだ。そして、心配した。
「どうした、」
私は立ち尽くす少年に話し掛ける。少年は、何も言わないで、俯いたままだった。
少しずつだけど、彼の顔に、表情が生まれ始めている。私はそれを嬉しく思っていた。しかし、まさか泣くとは思っていなかった。
ぽたり、ぽたりと、彼の足下に、雫が落ちる。
正直私は焦って、どうして良いのかわからなくなった。人の涙になど、もうずっと触れていなくて、混乱した。相手がこの少年であるなら尚更だった。
彼の涙に唖然として、数分混乱し続けたが、少年が崩れ落ちた瞬間に私の混乱は一気に晴れた。
嗚咽も漏らさずに涙を流す、少年の元に駆け寄って、背中を擦る。
「どうした、」
もう一度質問すると、彼は私のほうを見た。彼の涙に、戸惑った。
少年は泣き続けた。
少年が悲しむ理由は、数えるほどしかないように思えた。
痛いか、壊れたか。そのどちらかに違いない。
私は泣く彼の冷たい手を取って、電子ピアノの元へ行く。電源は入っているらしいが、音が鳴らない。ヘッドホンを外して鳴らしてみても同じだった。私は溜め息をついて一言、「壊れたね」と少年に言い、「もう、鳴らない」と言って電源を切ったら、少年はとうとう顔を歪めて泣いた。
さてどうしたものか。私は考えた。このまま彼を放置すれば、彼は泣くことをし続けるだろう。電子ピアノを引き続けていたように。
それは果たして良いことなのだろうか。答えは否。泣くのは、たまに、でちょうど良いのだ。
思案した結果、私は泣いて蹲る彼に、歌を唄う。決して上手ではないけど、私は唄った。彼の冷たい手を握って、優しく唄った。
「唄ってごらん、」
私は彼に言った。
彼は涙をとめて、きょとん、としている。
私は笑った。
もう一度唄って、彼にふると、彼は口を開けた。残念なことに、声は出なかった。彼は、話せないのではなくて、声が出ないのだと理解した瞬間だった。
私は弾き尽くした少年の楽譜を開いて、音符をなぞって、声を出す。それと一緒に、彼は声にならない歌を紡ぐ。
「上手、」
私は彼を褒めた。少年は泣いた。今度は、理由が分からなかった。私は音を上げそうになったが、彼をよく観察してみれば、はにかんでいる。
私は笑った。
まだ機械の目だし、手は冷たい、それでも彼は、初めてあった時よりも、とても温かかった。
「今日から君が、電子ピアノだよ。いい? ただの電子ピアノじゃない。君は笑うし、泣く。喜ぶし、悲しむ。息をするし、生きている。君の紡ぐ音色を、私はちゃんと聞いているからね」
私は彼を抱きしめた。
冷たいけど、温かかった。
彼の歌声を、私は「透明な歌声」と呼んだ。




2010.11.05 21:34

それでも彼は、電子ピアノの前から離れなかった。
彼は音を失った電子ピアノを弾きながら、透明な歌声を紡ぐ。
夜はきちんと、ヘッドホンを付けた。
私はそれがおかしくて、愛おしく感じた。
最早電子ピアノは姉からもらった私のものではなく、少年のものだった。姉の楽譜は、少年のものとなり、ヘッドホンは、彼の一部だった。全てが、少年を形作るものとなった。

そんな彼と、諍いを起こしてしまった。
電子ピアノの白鍵を二つ、壊してしまったのだ。掃除の時に、電子ピアノを動かそうとして、誤って倒してしまった。その時に当たり所の悪かった白鍵を二つ、壊してしまった。
少年はその光景を見て、私を責めた。
私は間違ってしまったといっても、罪悪感を覚えざる終えなかった。少年は本気で憤慨して、号泣した。弁解しても聞く気が無いようで、私はつい、「こんなガラクタ、もう捨ててやる」と口を滑らせた。言った瞬間に、後悔した。しかし弁解するればするだけ、底なしの沼に沈んでいくように、彼は遠く離れていく。
私は居たたまれなくなり、家を飛び出したのだ。

そして夜になった今でも、私は家に帰ることが出来ないでいる。
少年に何を言えばいいのか、さっぱり思い浮かばなかったのだ。私は今まで人間と触れることから逃げてきたことを後悔した。
完全に失態だった。あんなことを、言わなければよかった。その瞬間に少年が機械の目に光を灯らせて、驚き、次に私を侮蔑するように睨み、泣き出したのが目に焼き付いて離れない。
足は自然と、彼のいた交差点に向かっていた。立ち止まって、空を見上げる。雪は降らず、そんなに冷え込んではいない。それだけが彼と会ったときの差異かと言ったら、嘘だ。
私は今、確かに一人間との和解方法を模索していた。人との繋がりを、絶たせまいと奮闘していた。そして私の前に、彼はいない。

私は流れる人々に煙たがられながらその場を右往左往し、やっと「ごめんなさい」を一言いう決心を固め、自宅の玄関の前で深呼吸をして、中へ入った。

そこには、すべての鍵盤が壊れた電子ピアノが、ただ横倒しになって臥しているだけだった。






2011.10.20 21:32


まもなく電子ピアノが壊されて一年になるけれど、私はあの電子ピアノを捨てられないでいた。
彼のことを忘れた日は、一日として無かった。
私は今でも、後悔している。

私は雪のない路を歩いた。
大通りは、やはり人が多い。みんな流れて、私の視界から消えてゆく。立ち止まった私の空間を、共有する者はいない。
罪悪感に押しつぶされるのも最早時間の問題だった。彼に一言、謝ることも出来ない。謝って済むことじゃない。私は何故あんなことを言ってしまったのだろうか。どうして彼を悲しませてしまったのか。
私はあの侮蔑したように私を睨む、機械の目じゃない目を思い出して、懺悔した。
「     」
何かが、耳を掠める。
私は始め、風の音だと思った。
「        」
それが違うと確信したとき、私は人混みの中で、耳を澄ませた。聞こえてては流れる話し声や笑い声のなかで、私はただ一つの歌声を探す。
「      」
私は駆けだした。
名前も分からない少年の歌声が聞こえる。
確かに聞こえる。
「何処にいるんだ……ッ」
人混みを縫って、私は駆けた。透明な歌声を頼りにして、私は駆けた。此処だ、と思ったそこは、彼を見つけた交差点だった。
「何処にいるの」
私は叫んだ。ただ、歌声が聞こえるのみだった。流れる人に笑われたり、変人を見るような目を向けられても、気にする余裕はなかった。
「帰ってきてよ、……ずっと、もうずっと待っているんだ。もうずっと、ずっと……」
謝りたかった、逢って謝って抱きしめて一緒に歌いたい。唄いながら笑って、笑いながら、君を見て、そして生きたい。
唄が止んだ。私は空を見る。
雪が、降った。





家へ帰ると、電子ピアノの電源が入っている。鍵が全てある綺麗な電子ピアノは、間違いなく彼の電子ピアノだった。

その上にある楽譜を私は手に取った。

「Breath of mechanical」

頭の中で流れる旋律を聴きながら、私は涙を流す。

それに合わせて、私は楽譜をなぞる。
電子ピアノの前へ座り、温かい鍵に触れる。
一呼吸を置き、彼と共に、唄った。








ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

「Breath of mechanical」書いてみた2

Breath of mechanical書いてみた2 です。

初音ミクオリジナル曲 「Breath of mechanical」http://www.nicovideo.jp/watch/sm15938520

大好きです

閲覧数:204

投稿日:2011/11/05 17:26:24

文字数:3,006文字

カテゴリ:小説

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