雨を眺めるのが好きだ。
昼であれ夜であれ、ぱたぱたと屋根を打つ音が聞こえると、僕の心は応えるようにさわさわとささめき立つ。それが心地よくて、降り始めのこの瞬間がずっと続いたらいいのに、と思うのだが、なかなかそうはいかない。でもそのあとに訪れる、しとしととした時間も、いかにも雨がここにいますという感じがして心地よいから、やっぱり僕は満足してしまう。
それで、こうして、今も湿った庭を眺めている。縁側というのは家≪うち≫の中でもなく外でもなく、妙な場所だと思う。開け放した障子から漂う気だるい空気を背中に、外気のしっとりした湿度を額に、いちどきに感じながら、僕はひとつの境界にいる。
境界に紛れこむものは多い。殊に雨が近くなると、内も外もせわしなく動きだす。自然、境界を行き来するのも多くなる。大勢の駆け足を片耳で聞きながす。はじめの一滴を、僕だけが待っている。
素通りしないものもある。境界に入ったはいいが、よほど僕が邪魔なのか、あるいは単なる興味からか、蚊やら、甲虫≪かぶとむし≫やら、蟋蟀≪こおろぎ≫やら、猫やら、そうしたものが寄ってくる。おかげで僕は雨音ばかり聞いてもいられない。
今日のような梅雨の午後は、降りだす前から雨蛙が喋り始める。けろ、けろ、とも、くわ、くわ、ともつかない声が、庭のそこここから聞こえ始め、水がしとしという頃には、歌声は呆れるくらいに重なっている。あまりに多くて、一つか二つは足下にまろび出る。
ぱ、ぱ、と不器用にとびはねる。角ばった石によじ登り、少し迷って、えいやっとばかりに縁側にへばり付く。四肢を器用に貼りつけて板の上に出る。そうして息を整えている蛙と目が合って、僕は少し打ちのめされる。
雨粒は変わらず落ちている。継ぎ目の見えない曇り空から、暗く濡れそぼった六月の土へ、ひっきりなしに落ちている。青々とした蛙だけが、とんではねて、またとんでいる。
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