【人間界で】

 ―夫が鬱になった。
私は、いつもの生活を送っていたのだった。
その「いつもの生活」というのは、職場に行って仕事をして、家に帰ってきて家事をするということ。
それが私の「いつもの生活」だった。
私の仕事は中学校の先生だった。
一昔前は学校の先生というと、うつ病になってしまうとかでものすごく大変だったらしいけれど、最近では楽な仕事に変わっていた。
仕事があるので私だけの力では家事をやりきれない。だから夫にも大分手伝ってもらっていた。
 一方夫はというと、会社へ行って仕事をして、それから私から頼まれた家事もがんばっていた。家事を頑張ってもらっていた。
そして夫はうつ病になってしまった。
もしかしたら、私が家事をサボり過ぎていたのかもしれなかった。
それで夫に負担がかかっていたのかもしれない。
かれは真面目だから、一生懸命両立しようとしてくれていたのだと思う。
私が日々を繰り返すことにあまりにも真面目になっていたのかもしれない。
私は彼の兆候に気付けなかった。
仕事は楽とはいえど、それなりには忙しかったから。

でも、今思えば、本当に重症だったのは夫より私の方だった。
私は心を亡くしていた。
私は忙しかった。
 或る日、正確には7月6日私が夕ご飯を作っているときに、夫が私の所に来て、私に抱きついてきた。
料理しにくいし、危なかったけれど、夫はそうでもしないと不安なのだろう。
 夫は家にいるさなか
私はいつもどおりに勤務先の中学校へと車を走らせた。
病院へ一度行ってこれからのカウンセリングの事や薬のことについて聞いてきた。
それで今日は私は仕事へ着た。
そして、いつもどおりに着いた。
いつもどおりの所に駐車して、荷物を持って車を出て…バタンとドアを閉める。
そこまでは本当にいつもどおりだった。
私は職員室の方を向き、それで……私は、固まった。
私は―固まってしまった……?
動けない。
どうにもこうにも体が動かない。
私は困った。
だって、私はこの後職員室へ行かないといけないのだから。
でも私は固まったままだ。
よく見ると、動いていないのは私だけではない。
風もなく、なぜか時間が流れているという感覚が無い。
いつまで経っても…ずっと…永遠に…?
私はなぜか、この状態が一生続くように思えた。
きっとずっとそのままなのだ。
私はこのまま。
何も変わらない。
ここへは誰一人来ないし、時間もまったくもって進まない。
もう何年経ったのかな?そんな事が浮かんだ。
いやそんなに何年も経っているはずはない。
でもそんな風に思えてしまう程なぜか「永遠」に思えた。
太陽はずっと同じ位置にある。
しばらくすると(時間は進んでいないようだが)、この動かない世界に1つだけ動きだした物があることに気がついた。
風だ。
風で草が「ささっ、すさっ」と揺さぶられている。
少しだけ時間が流れているという感覚があって、安心した。

不意に私の視界の中で変な動きをするものが現れた。
物陰から、何かが出てきた。
私は、それが何なのか目を見開いて注視した。
もっとも、今の私は動けないので、目を本当に見開けているのかは疑問だったけれど、
気持ちとしては脳から目のまぶたの筋肉に対して「開きなさい」と命令しておいた。

―――それは…ワカメだった。

 あんな訳の分からない世界に1人で行けば、
誰だって、不安になるのが当然だと思う。
でも私の場合はむしろ逆だった。
私はワカメの国にいるときの方が安心できた。
私って、自分が思っていた以上に人間界での生活を嫌だと思っていたらしかった。
ワカメの国に行ってその事に気がついた。
事務所の皆がワイワイやっていた所を見ていたら、なんだかとても安心することができた。
心からそう思えた。
以下回想(海草)。
 初めてこっちに来た日の事、
おかしな動きをする変な物体、それはワカメだった。
私は朝、あの駐車場でワカメに引っ張られてこちらに来た。
グイと引っ張られた。
胸倉をグイっと引っ張られてそのまま
私の頭の中はグルグルと回った。
強引に引っ張られて回る私は抵抗などできなかった。
ましてやさっきまで駐車場で長い間突っ立っていたんだし。
私は引っ張られながら、このまま引っ張られ続けて、どこか遠くへいってしまう気がした。
そして、こんなに早いスピードで、まっすぐ行ってしまっては、帰り道が分からなくなるのではと思ってすごく不安に思った。
どこか遠くへ私は連れて行かれているんだと分かった。
そして直感的に、こんなに早いスピードでまっすぐに進んで行ってしまうのでは、簡単には帰って来られないと思った。
結果的にはそのとおりだった。
私はもう自分がグルグル回ってはいない事に気がついた。
そして自分の目に何かが映っている事にも気がついた。
私は目に気を送って、視覚を働かせ、目に映っているのが何なのかを確認しようとした。
映ったのは茶色だった。
茶色の木目の壁。
私は古目だと思われる木目の壁を見ている。
そして、私は、アヒル座りをしていた。
手を前についている。
「こんにちは」
誰かが私に挨拶をした。
私は何も考えずに、つぶやいた。
「こんにちは」
「これは、驚いた、本当に普通の人間だね」
「所長が連れて来いって、」
「うん。まあでも、何?ワカメの国にふつーの人間が来るのはかなり珍しいんじゃないかね」
「それはやっぱりそうでしょう。珍しい珍しい。」
私は、耳元でそんな声が流れているのを何となく聞いていた。
私はハっとした。
私が今聞いているのは何?
私が居るのは何処なの?
私は当たりを素早く見回した。
何処かの部屋だった。
壁は全て茶色の木製だった。
机が置いてあった。
机も木製だった。
誰も居ない。

ここは!

そう思って私は立ち上がった。
すると、目の前に…ワカメが2人…いた。
私はドキっとした。
こんな近くにワカメが2人、逃げないと…。
怖い。
でも、こんなに近くにいる。逃げ切れないだろう。
どうしよう……ワカメが2人?って?

そんなことを考えていたら、視界が急にはっきりした。
いままではぼやけていたみたいだ。
そこにははっきりと、ワカメが2人、居た。

普通は、こういう変な所に1人っきりで来ると、
不安だなとか、これからどうなるんだろうとか、感じるのだと思う。
でも私の場合は寧ろ逆だ。
人間の世界に居るときよりも、ワカメの国にいる方が安心する。
よっぽど向こうが嫌いだったって事かな。
こっちに来てから、その事に気がついた。
向こうでの日々はあまりに単調過ぎたんだ、きっと。
ここにいる人たちのワイワイやっている所を見ていると、なんだか安心できた。
心からそう思った。
楽しかった。
体が崩れちゃったり、透明になっちゃったりしたけれど。
私が折角書いた報告書をホンヤクこんにゃくを使って訳してもらった。
「ここで迷うのは、大体は子どもなのよ。大人も夢は見るだろうし妄想もするだろうけど、最終的には自分でちゃんと帰れるの。でも子どもは夢の世界から人間界に戻れなくなることが多々
あるのよね」
任務の途中でフランジェリムさんが話してくれた。
その後でこんな事を話してくれた。
「人は夢の国へ行ったままでしばらく帰らないと、もとの人間界には戻れなくなってしまうの。
その人は初めから居なかった、という事になってしまうの。」
「それってとても怖いですね」
そのまま戻れなくなってしまうなんて、それに人間界では誰も心配してくれることも無くて、初めからいなかった事になるだなんて…。
でもソランジェリムは、よくあることよと言った。
別にこわか無いわよって。
でも、だからこそこの案内所があるという事か。
人間界に戻れるように案内してあげるんだ。
「でもそんな事言うけどさあ、あんた人間界にいる時より元気にやってるじゃない」
「私が人間界にいるときの事なんて知らないでしょ」って言ったら、
「知らないけどなんとなく分かるよ、今のあんたを見てると」って言われた。
でも確かにその通りだった。
この職場の本当の名前は「迷い人案内所」というらしいが、ワカメの国では誰もが「迷い子案内所」と呼んでいるらしい。
所長が教えてくれた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

ワカメの国 第九章 正し過ぎた人 広美の物語

【説明文】
正しい考えの下、正しい毎日を送る広美。
中学校教員をしている。
しかし、彼女の正しさが他人を傷付けて居る事が在るとは彼女は気付いて居無い。中国では7月15日には地獄の門が開くと言われる。
【賞】
小説「ワカメの国」は「KODANSHA BOX-AIR新人賞」に応募しました。
結果:選ばれませんでした

【Link】
公式電子書籍URL:[http://book.geocities.jp/wakamenokunipdf/4.html] 公式サイトURL:[http://book.geocities.jp/wakamenokuni/index.html]

閲覧数:129

投稿日:2012/09/18 18:16:18

文字数:3,397文字

カテゴリ:小説

クリップボードにコピーしました