小さな依頼人

 懐かしい。
 その一言で全てが足りた。我が家の匂いとも言うべきものか。煙草のヤニとか何かが腐った酸っぱい臭いとかそういうダイレクトなものではなくて、長年住んでいることで染み付く生活の匂いだ。
 まぁ、そんな大それた表現を使うまでもあるまい。ようするに八畳間に風呂トイレキッチンがついた、雑誌やらカップ麺の空やら使用済みのティッシュやらその他よくわからないゴミで埋め尽くされた小汚い己の部屋に今一度戻ってきただけの話だ。
 ジハドはそれでも感慨深げに深呼吸する。
「すぅー…はぁー……。あぁ、くせぇ」
 いくら美化しようとも、やはりこれだけはいかんともし難かった。
「あぁくせぇくせぇ。ご主人様のお帰りだぞぉーっと……」
 ばふっ、と血痕やもろもろのものが付着したベッドに倒れ込んだ。
 夕暮れどき、舞い上がった埃が西日差す中でふわふわと赤く染め上げられていくそれを、ジハドは無気力に見やった。
「……血だ。やっぱり俺、殺し屋やってたのかな」
 もう殺し屋という単語に現実感が伴わなくなっていた。これが夕澪が言っていた『夢から覚めたような感覚』なのだろうか。これもそのうち思い出せなく――いや、破損した曖昧な記憶そのものから消されるという事なのだろう。
「……どうでもいい」
 既に、恋人がいるかもしれない、という欠陥部分は完全に消されていた。ジハドは知らぬ間に思い出せなくなっている。
「そうだ、武器があるんだ。……あー、ここだったかな?」
 武器を持っていた事は覚えている。記憶を修復してもらったからそれは確かだが、何を持っていたのかまではよく思い出せない。思い出せないが、二つ所持していたのは彼の記憶の隅に引っ掛かっていた。
 寝ているところを捲り上げ、ジハドはスプリングベッドの裂け目に手を突っ込む。硬くて冷たいものが指先に触れた。
 引っ張りあげると、それは刃渡り三十センチはあろうかというナイフだった。片面がのこぎりのようにぎざぎざになっている。
 牛でも捌けそうだな、ジハドはまだはっきりしない記憶をなんとか掘り起こそうと刀身をひらすら眺めた。
 もう一つあるはずなのだが、とソファーにまた手を突っ込んだが、結局見つかったのはそれだけだった。ナイフ一本で殺し屋が勤まるのかと、自嘲気味に笑んでジハドはそれをソファーの上に放り投げ、ごろりとベッドに横になった。
 ぼふっ。
「………?」
 あれだけのナイフにしてはいやに重い落下音が耳につく。ジハドが不審に思い目を向けると、
「アロハ~。おげんき~?」
 暫し黙考する沈黙が、八畳間の小汚い部屋に満ちた。
「な、なんでお前がいるんだっ!」
 そこには体のライン丸見えなむちむちのスキンスーツ――もとい、紺色のスクール水着を着こなした夕澪が、ソファーにあぐらをかいてどっかりとふんぞり返っていた。
「しかしくさいねぇ、ここ。掃除くらいしたほうがいいとおもうよ。なんか妊娠しそう~」
「勝手に沸いて出たお前に言われたくはない」
 からからに干からびたティッシュをつまんで匂いをかぐ夕澪。
「奇抜な訪問には一割ほどの理解を示すが、何用で来たのかぐらいは言え。そして用が済み次第とっとと帰れ」
 夕澪はきわどい雑誌をめくる指先を止め、
「いや、ちょっち忘れ物を届けに来ただけだから」
「あぁ? 忘れ物?」
「そそ、これこれ」
 そういうと夕澪は黒い、カステラの箱ぐらいな大きさのものをジハドに投げて寄越した。慌ててキャッチしたジハドであったがその重さに驚く。
「なんだこりゃ。……銃か?」
「『一つにあなたは武器を持っていた』。……覚えてる?」
「あぁ。でもそれは記憶の話だろう。それともなんだ、無機物が昇天してデータと化したとでも言いたいのか」
「わかんないよ、そんなこと。だって落ちてたんだもん。記憶と一緒に物質的なものまで修復しちゃったんじゃない?」
 むぅ、と夕澪は頬をふぐのように膨らませた。
「俺は確かに武器を持っていた。でもなにか違う気がする。……そう、銃とナイフだ。それは覚えてる。でも、こんなものじゃなかったはずだと思う」
「こらおっさんいちいち文句言うな。せっかくこのマテリアルスーツ込み込みでエロエロな夕澪ちゃんが届けに来てあげたんだからさ」
「はぁ……」
「とりあえず試し撃ちでもしてみたら~?」
「ここは俺の部屋だ」
「グリップは太いけどそこだけを見ればベレッタよりはP220改に近い感じはするなぁ。でもそれ以外はマガジンのないVz.61っぽい……。取りあえず用途的にはSMGであってる。まぁ9ミリルガーの一発や二発大した事ないって。9ミリグラビガスティだとアレがこれもんで面倒だけど。あ、その心配は必要ないか」
「く、詳しいんだな……」
 さらさらと言ってのける夕澪に、意外な一面を垣間見るジハドだった。
「まぁいいか。人っ子一人いない廃墟の中だし」
 奴の言っていることはさっぱりだが、構造はオートマチック拳銃のようだ。マガジンがやや太いが握りやすく、確かにマグナム弾ではこれ程手にフィットするグリップにはならないだろう。特徴としては最初カステラの箱かと思ったくらいに、拳銃にしては銃身がやや長く大きいところだった。
 ふと、ジハドはマガジンを外すつまみがないことに気付く。どこをどういじってもやはりマガジンを外す事は叶わず、弾丸の装填状況は不明に終わった。
 しかし不思議な事にそれ以外の機構はまともに機能していて、セイフティを外し撃鉄を起こす彼の動作は流れる水のように滑らかだった。
「ねぇ、やっぱり殺し屋だったんじゃない?」
「殺し屋? いくら凶器を持っても俺は人なんて殺しはしない」
 確実に欠損電子を削除した結果は現れているわ。小さく、夕澪は呟いた。
「コンクリートだしな。めり込むくらいならいいんだけど」
 玄関近くの壁に向けて、ジハドは遂にトリガーを引いた。
 反動の少ない手ごたえがして、高速の弾丸は狙いたがわずそれを捉え、そして――
 どごおおおおおおおおおん!
 と、爆音を轟かせ厚さ十センチはあろうかというそれを粉砕した。
『えっ?』
 ジハドと夕澪は驚愕に互いの顔を見合わせた。
 拳銃の一発ではありえない威力。重機関銃の一撃でもやっとな破壊力であるがしかし、壁一面がごっそりと吹き飛ばされて随分と風通しがよくなったのを目の当たりにすれば、それは認めざるを得ない威力と割り切るしかない。
「は、はひ。い、今のはなんでおじゃるか……」
 爆砕範囲ぎりぎりで腰を抜かしている幼い少年がそこにいた。
「こ、殺す気かジハドどの……」
 右手を口に突っ込み、理不尽な仕打ちに少年はわなわなと震えている。ポロシャツに短パンという出で立ちで、十歳より上はいかないであろう姿だった。
「……事故だ」
「不幸な事故にならないでよかったねぇ~」
 ぱんぱんと尻に付いた汚れを払い、憤然と少年は怒りをあらわにする。
「ふざけるもの大概にするでおじゃる! 貴公の振る舞いには常々尋常ならざるものがあると感じておったが、よもやここまで非常識とはおもわなんだ!」
「ねぇおっさん。この可愛いショタ坊やはだれぇー?」
「うーむ……、思い出せそうで思い出せない。これも魂のデジタル化に伴う記憶障害だろうか」
「あー、それ一時的なものだから」
「なにを分けのわからないことを申しておるか! それになんだ、そのぉ……」
 少年は夕澪にちらりと視線を向け、慌てて逸らし、目のやり場に困っていた。
「やーん、可愛いぃ~。わたし好み~」
 とてとてと少年に走りより、頬ずりする夕澪をみてジハドは溜め息を吐く他なかった。
「や、やめるでおじゃ――へぶっ」
 ジハドは彼女の胸の谷間へ押し付けられ窒息しそうになっている少年を解放し、問いただす。
「……おいガキ、お前は誰だ?」
「むむ! 汝の依頼人を忘れたのでおじゃるか」
「……依頼人?」
「余とその仲間を守る依頼だ! ……今、緊急事態が起きている。それでいつまでも姿が見当たらないジハドどのを迎えにきたのだ! しかも随分と探した!」
 姿が見当たらないのはその間死んでいたからだ。とは、さすがにジハドは言えなかった。これ以上話をこじらせるのも面倒と黙っている事にした。
「事は一刻を争う。さぁ、早く来てくれ!」
「……おっさん」
「おっさん言うな!」
「未練って遣り残した依頼の事かもよ?」
 ジハドは口を閉ざした。そう、それは彼が正に思っていたことだ。だがしかし、せっかく手に入れた第二の人生をこれでふいにしてしまうのではないかという不安もあった。成仏したら俺は消える……。本当の意味で死ぬ事がたまらなく怖かった。だから、うんと直ぐに答える事は出来なかった。
「……わかった。準備するよ」
 誰かを守るということは誰かを傷つける事だ。部屋に戻り、ジハドはナイフを腰に差し、銃を懐に仕舞った。
「わたしも付いて行っていい?」
「……勝手にしろ」
 こうして小さな依頼人とあの世の管理者を従え、ジハドは住み慣れた住まいを後にするのであった。


     ※

「……ジハドどの。では本当に記憶がないのか」
 ジハドの愛車、黒塗りのジープの中で揺られながら少年が彼に訊いた。既に辺りには夜の帳が下り、ぽつぽつと点在する外灯とあまり賑やかではない街の明かりが車内の三人を照らしている。
「そうだ。まぁ、詳しくはそこの変態に聞くのか一番いいだろう」
「変態とは失礼ですにゃ~」
 後部座席全てのスペースを使ってくつろいでいる夕澪が軽く反論した。
「変態に変態といって何が悪い。毎度毎度ちんちくりんな格好しやがって」
「お、お二方は仲が悪いのか?」
 一人、話題に取り残された少年がおずおずと尋ねる。
「別に悪くも良くもない。まぁ強いて言えば俺の性奴隷だ」
「そうそう、出会った瞬間から二人は熱く熱く――」
「否定しろよっ!」
 極力このおなごには関わらないほうがいいでおじゃるな……。とても自分にはついていけないノリに少年は深く嘆息した。
「恥ずかしながらこの奇才、夕澪ちゃんが説明するところによると――ところでショタ坊」
「ショタ坊ではない! 暦とした名前がある。――余の名前は、い、イチタロウだ」
「一昔前の日本語入力系アプリケーションみたいな名前だな」
 恥辱と憤怒に顔を赤くしたイチタロウは屹然とジハドに向け言い返す。
「幼名でおじゃる! 幼名っ!」
「でもイチタロウなんだろう?」
「ふ、ふぎぃぃ……っ!」
「まぁまぁ、名前を聞きたかっただけよ。んでショタ坊」
「名前で言え!」
「……結局怒るのかよ」
 シートでだべっていた夕澪はそこでようやく起き上がり、イチタロウ――言いにくいのでタロウ――に説明を施した。
「そこのおっさんはね、一回死んじゃったんだ。んで魂をデジタル化されて昇天したんだけど未練があったから、まほうで復活したの」
「ま、まほう?」
「詐欺みたいなもんだけどな」
 いちいち口を挟むのはよくないにゃー、と夕澪は運転するジハドの脇をこちょこちょとくすぐった。あわや電柱に激突というところで解放してあげ、そして彼女はタロウにそのせいで記憶が曖昧になってしまったのだと語った。
「……戻るのでおじゃるか」
「時間が経てばね。すぐに治るってば」
 しかし、彼女は記憶の削除に関してだけは喋らなかった。
「なんだか実感がねぇんだよなぁ。まぁ、喉まで出掛かっているような感じかな」
「ふぅ、それはよかった……。大事な依頼を根こそぎ忘れられていてはたまらん」
「それで、アジトだっけ? とりあえずそこへお前を連れて行けばいいのか」
 煙草を一本くわえ、窓をあけてジハドはそれを堪能した。久しぶりに味わう紫煙の香り、たなびく煙は尾を引いていくように街路へと流れていった。
「そう、一人敵陣へと突っ走った愚か者を救い出すのがジハドどのの役目だ。余はアジトを引き払う準備を他の仲間と共に行い、ジハドどのが救出ののち即座にこの街を出る」
「夕澪も助けにいく~」
「お前はくるな。こいつと一緒に引き払う準備をしてろ」
 むぅ、と頬を膨らませる夕澪の姿をバックミラー越しにちらりと捉え、タロウはしみじみと、それでいて部下の尻拭いをする管理職者のような口調で話し始めた。
「……事の発端はアジトが敵から見つかった時点で起きた。焦ったサクヤは――あぁ、その愚か者の名前じゃ。この街を牛耳っているその組織のもとへ単身赴いた。おそらくやられる前にやってしまおうという浅はかな考えなのじゃろう。まさか何の策もなしで戦いに赴いたわけではなかろうが、不安でいてもたってもいられない」
「その組織ってのは――ああ待て、なんだか思い出せる気がする。……そうだ政治犯をなんたら……」
「そう、政治犯を取り締まる独裁組織じゃ。特警をきどっているが実質はどうでもいい理由をでっち上げて罪もない市民を捕まえるキチガイどもじゃ。あの組織はノルマをあげればあげるほど給金が上乗せされるシステムができあがっていて、欲に溺れた馬鹿の一人が始まりなのだろう。それを見逃し、奨励さえする幹部も揃って馬鹿ばかりなのだがな」
 腕を組み、眉間に縦皺を一本浮かべるタロウの姿は十歳児にあるまじきものだった。
「そんで、ショタ坊はなにをやらかしたのにゃー?」
「何もやっておらん! 父上にも母上にも身に覚えがないのじゃ! そもそも余は子供でおじゃるぞ。……それで同じ境遇のもの同士、見つからないように万全を期して隠れておったのじゃが、それをやつらが……」
「大体そんなところだったな。だいぶ頭がはっきりしてきた」
 そう言うと、ジハドは短くなった煙草を車窓に突き出し放り捨てた。
「おーけーおーけー。じゃあ目標がしっかりしたところだし、急いで駆けつけてやりますかね」
 そしてぐんっ、とジハドはアクセルを踏み込みジープは更に加速していった。
 明るくきらめく街、その中で人々に巣食う暗い闇を切り裂くが如く三人は地上の弾丸となりて突き進んだ。


     ※

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

緋色の弾丸 その4

分割その4です。

閲覧数:38

投稿日:2010/06/09 03:34:24

文字数:5,774文字

カテゴリ:小説

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