手首に真っ白な包帯が巻かれている。ぐるぐるぐるぐると、厳重に、きつく巻かれている。
 まるで、私をこの世界に繋ぎ止める手錠のようだ、と思った。

 上げていた腕を落とし、息を吐いて天井を見つめた。貧血のせいか、まだ身体がだるい。明日からどうしようか、と考えていた。母は、泣いたり笑ったり怒ったりしながら私に話しかけ、先ほどようやく、この部屋から出ていったところだ。父も一階のリビングにいるらしい。
 指が動くことを確認した。そこまで深く切れなかったようだ。つくづく臆病者だな、と自分を嘲った。今すぐ舌を噛む勇気だってない。左手首に巻かれた包帯を撫でながら、自分が安心していることに気づいた。
 ノックの音がして、父が入ってもいいかと訪ねた。いいよ、と答えると、やや頭を下げながら、父親が静かに入ってきた。まるで面接みたいだ、と思って、私は笑った。
 父はベッドの横にしゃがんで、しばらく私の顔を見ていた。私は目を逸らして、窓のほうを眺めた。
 痛むか、と彼はきいた。私は首を小さく横にふった。実際、大して具合は悪くない。むしろすがすがしいくらいだ。
「ほら」
 父はワイシャツの袖を捲って、彼の手首を私に見せた。そこには、一本の長く太いいびつな筋が、手首を横断していた。どうやら切り傷の痕らしい。私は驚いた。これはどういうことだろう。
「おまえより少し若かった頃に、自分でつけた傷だ」父は私の視線に答えた。
「ずいぶん浅かったな」
 父はにやりと笑いながら私の腕を指し、皮肉げに言った。私も少し笑った。父の、こういうところが好きだ。
「おばあちゃんもな、手首に傷があって、昔一度だけ見せてくれた。これは血だな。遺伝子のせいだ」
「血を絶やす呪いでもかかってんじゃないの」
 私は言った。久しぶりに口を開いて出た言葉が、皮肉だった。
「ひねくれ者も遺伝したみたいだな」
 私は父の母親、つまりおばあちゃんのことを思い出した。彼女は意地悪な婆さんだった。お年玉など、もらったためしがない。幼い私が泣くたびに、「かわいいなァ、かわいいなァ」とけらけら笑っていたことを、よく覚えている。彼女が死んだ際、私は泣かなかった。
「父さんは今も、あまり左手は強く握れないが、お前のはたいしたことはない」
 彼は言った。私はどちらでもいいと思った。
「お前は正しいよ」
 彼は言った。私はどちらでもいいと思った。
「生きていることを当たり前だと思っているのが、いちばん悪いんだ」
 そんなことはよくわかっている、と返す気にもなれず、私はただ父親の顔を見て、皺が増えたなあ、などと考えていた。
「おまえはそれを知ってるんだろう。だからおまえは、生きている人間として、誰よりも正しい」
 私は父が何を言っているのかよくわからなかったが、父が私のことを十分に理解していることは、なぜかわかった。私は父を信頼しているのだ。
「そんなことより、これちょっときつすぎるよ。血が止まる」
「きつくない。大丈夫だ」
 私が掲げた手首を、彼は柔らかくつかんで寝かせた。医者である父が巻いてくれた包帯だ。きっと父のことだから、陳腐な愛情とか優しさなどは込めず、見透かしたように、わざときつく巻いてやったのだろう。私は包帯の上から手首を掻いた。この窮屈さも、少し心地いいと思った。

 私は無能で愚鈍だが、幸せ者だった。それが辛かったことを、父は知っていたのだ。

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包帯   (掌編小説)

閲覧数:255

投稿日:2011/06/10 23:11:38

文字数:1,412文字

カテゴリ:小説

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