このあいだまで時をかけていた人々が最近は仏陀がどうだなどと騒いでいる。世間はいつだって愛に飢えているのだ。
「まるで自分は別だとでも言いたそうね」
 右斜め前方の少女から物言いがつく。読心術を心得ているらしい少女は一見したところ小学生らしい風体をしていた。ショートの赤毛。真っ赤なランドセルがピカピカだ。
「言っておくけど読心術じゃないわ。あなたが勝手に喋ったの」
「こと事実に関してはどうやら少女のほうに分がありそうだと僕は悟る。彼女の言うとおり、僕にはときどきひとり言をつぶやく癖がある。しかし目のまえの少女に対して僕が抱いている恋心まで露(あらわ)になったわけではないと知り僕は胸をなでおろす。ここは田舎の各駅停車の二輌目で少女は扉の前のポールをしっかりとつかんでいる。他に乗客はいない。窓から午後の日差しがさしこんでいる。僕は二つの終点のあいだを今日だけで三往復した。今は座席で文庫本を読みながら考えに耽っている。そんな僕のことを少女はやさしく見つめている」
「気持ち悪いわ」
「少女はさらりと僕を傷つける。それは地に降りそそぐ槍の雨のように無慈悲で絶望的な言葉だ。それはごく一方的に放たれる冷酷で残虐な攻撃だ。僕に選択の自由はない」
「でもあなたには行動の自由がある」
「黙れ小学生」と僕は言った。少女はつまりそのぶつぶつうるさいひとり言を今すぐやめろと言ったのだ。僕だって止めようと思えばひとり言くらい止められるというのに。馬鹿にしている。
「あなたのまわりには愛がないのね」と少女は言った。「だから黙れなんて言えるんだわ」
「ならきくが小学生。小学生のまわりには愛があるのか。それだから小学生は俺にむかって愛がないなどと言えるのか」
「あなたに愛がないなんて言ってないわ」
「同じことだ」と僕は言った。「同じことさ。きょう俺は映画を観た。『ローマの祝日』。観終わった観客の多くが『切ない』だの『愛が』だの口々に喋っては涙を流した。しかしこの俺ときたら」僕は肩をすくめてみせた。
「あれはいい映画だわ」
「そんなことは聞いてない。とにかく俺はああいう愛に群がる連中とはほど遠いところにいる。仕立てあげられた愛なんてまっぴらだ。今だってちょっとかわいい幼女とふたりきりの状況で、はやく連れ帰ってお医者さんごっこしてえとか思ってるんだ」
「鬼畜ね」
「嫌ならお姫さまごっこでもいいんだが」
「最低」
 僕は打ちひしがれ、しばらくのあいだ車内は沈黙に支配された。
「でも」列車が山深い駅をふたつ通過したころ、幼女は口を開いた。「あなたには愛がある。少なくとも、他人に向けるだけの愛があなたにはある。あなたが自分を愛と無縁の存在だと思うのなら、それはあなたがあなた以外に愛あるものを知らないだけよ」
「幼女の瞳はその無垢な微笑みとともに僕を見た。僕は確信した――ついにテイクアウトフラグが立ったのだ」
「わたしには警察を呼ぶ権利も残されているのだけれど」幼女は右手の携帯電話をもてあそんだ。
「そのうえ俺の愛とやらも小学生の手の中というわけだ」僕は少し焦って言った。
「そういうことね。自分で気づいてくれると嬉しいのだけど」
「小学生がこのあと看護師さんか患者さんになってくれたら気づくかもしれないな」
「なんだか薄汚れた愛ね」
「心配するな。女医さんコースもある」
「素敵」
「礼なら下半身で受け付けているが」
 幼女は溜息をついた。
「しかし小学生、俺に愛があるからといって俺の生活の何かが変わるわけじゃあないんだ」と僕は言った。「俺に愛があろうがなかろうが世間の人々は映画を観るし感動もする。俺の言ってること分かるよな?」
「分かるわ」と幼女は言った。
「だったら、小学生が言うところの俺の愛なんてあったところで何の役にも立ちやしないじゃないか。世にあふれるはドラマティックに飾りたてられたフリガナつきの『愛(あい)』、そんなものを俺がどれだけ斜めに見ようが小学生の知ったことじゃない」
「そうね」
 幼女は僕の隣にちょこんと腰を落ち着けた。ランドセルからソプラノリコーダーを取り出す。
 ガタガタと騒々しい車内にたどたどしい『かえるのうた』が流れた。低いレの音をよく間違えていた。長い息継ぎのせいで、一曲を吹き終えたとき幼女の頬は紅潮していた。
 僕はひとりで拍手した。
「まだこの歌しか習ってないの」幼女は照れくさそうに言った。
「かまうもんか。とても良かったよ」と僕は言った。「ところで、それ舐めていいかい」
「あなたには紳士のたしなみが足りないようね」幼女は言い、目を伏せたまま無造作にリコーダーを差し出した。
 僕は細心の注意を払いながらそれを受け取った。僕は動揺していた。
「悪いけどこっち見ないでくれる?」と幼女は言った。僕は了解の意を伝え、首を正面に向けて息を吸い込んだ。
 僕がそれに口をつけた瞬間、視界の隅で小さな肩が小さく跳ねるのが見えた。僕はかまうことなく『大きな古時計』を吹いた。僕が新たな音をたてるたびに幼女の肩はぴくぴくと震えた。ソプラノリコーダーの穴の間隔は狭すぎて僕の太い指には窮屈に感じられた。しかしそれでも僕の指は穴を押さえることをやめなかった。
 メロディが「おじいさんの生まれた朝に」のところにさしかかったころ、幼女の理性は限界を迎えたようだった。幼女の唇からはときおり熱い吐息とともに高い声が漏れ出ていた。ガタゴトと繰り返す単調なリズムの中で僕の耳はその声を聞くことができた。曲が進むにつれ幼女の息は荒くなっていき、ついにはその口を両手で塞がなくてはならないほどだった。もはや約束は守られず、僕の出す音は至近距離から幼女の身体に伝えられていた。幼女の赤毛は揺れる車体と一緒になってリズミカルに跳ねた。最後のフレーズで幼女は自らの肩と吐息をかき抱いたままびくびくと痙攣した。静かなソの音は小うるさい走行列車の中に心地よい余韻として残り、我々の中で長い尾を引いた。
 演奏の終わった僕と放心状態の幼女を乗せたまま、列車は走る。しばらくぶりのホームから初めて僕ら以外の乗客が乗り込んでくる。列車は町に入ったのだ。
「ありがとう」と僕は言い、リコーダーを幼女に返した。「すごく良かった」
「どういたしまして」と幼女は気だるそうに微笑んで言った。「『お礼は下半身で』というわけにはいかないけれど」
「そいつは残念」と僕は言った。最近は残念なことが多い。
 車窓の陽は朱色に染まりつつあった。








 

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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【小説】幼女の吐息

(´・∀・`)<ょぅι〃ょ!

2009年11月の作品。この頃から幼女性向が強くなってます…
エロ要素もふんだんにありますので、苦手な方はご注意を。

なんていうか、ごめんなさい。

閲覧数:281

投稿日:2016/04/17 13:14:05

文字数:2,678文字

カテゴリ:小説

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