――――――
ひとりきりで部屋で眠っていると退屈してしまう。
ここ数日だるいのが続いていて微熱が続いていたのだけど、それを放っておいたのがいけなかったみたいだ。母さんに連れられて病院へ行き、いつも通りなんだかよくわからない検査を一通り受けて、いつもの風邪だから安静にしていなさいと言われて大人しくベッドに入っていたのだけど。眠ってばかりいるのにも飽きてしまった。
体の弱い私は、幼い頃からしょっちゅう熱を出しては寝込んでいた。風に揺れるカーテンが床に落とす影を数えながら、うらうらと夢と現の境目を行ったり来たりする、そんなことばかり覚えている。季節の変わり目だといっては熱を出し、夏や冬の盛りだといっては体調を崩し。時々元気になったらその合間に学校に行く。そんな日々を送っていた。
そんな私のそばに、ミクはいつもいてくれた。
昔は自分の体が人よりも弱いことに対して、どうしようもなく悲しく感じたり、焦燥感にかられたりしたものだが、いまではさほど辛いと感じることもなくなった。ただそういうものなのだろうな、と受け入れることができるようになった。
それもこれもミクがいたからだ。ミクが傍にいてくれたから寂しさも悲しさも辛さもどこかへ消えてしまった。
熱で浮かされた指先を、ミクの冷たい指先が握り締める。単に身体的な心地良さだけではない、精神的に安心するものがあった。ここにつなぎとめられている、という実感があった。ここにいていいのだ、とミクの手が言っているような気がした。
きっとミクがいなければ、私はとっくの昔にだめになっていただろう。
午後になって、ミクが学校をさぼって遊びに来た。それだけで私は嬉しくなる。熱も下がっていたので、街へ遊びに行こうと誘う。
「だめだよ。ハツネは病気なのに」
そうわざとらしく真面目な口調でミクが言ってくるから、ミクだって、と言い返してやった。
「ミクだって学校サボって遊びに来たくせに」
わざとらしいほど非難した口調で言ったら、ミクが可笑しいというように笑った。
街の中は人がいつもいっぱいで、私たちみたいな子供が紛れ込んでも誰も気がつかない。私はミクの手を握りしめて、ミクは私の手を握りしめて。人ごみの合間を縫って石畳の上を走り抜ける。ずっと部屋の中にいたから外の空気が気持ちいい。爽やかな初夏の風が二つに結った私たちの長い髪を揺らす。
路地裏を抜けて大通りに出て。玩具屋に忍び込みからくり人形を勝手に動かして、花屋の前を通ったら店先に飾られているガーベラをそっと一本失敬して。屋台で売られている揚げ菓子を買い食いして、その端っこを野良猫に分け与えたりして。
背の高い建物の合間から顔を覗かせている鮮やかな青空が目に眩しい。もうすぐ夏がやってくるんだなあ、なんてことを考えながら空を見上げていたら、横でミクが、くしゅん、と空の青さに目が眩んで小さなくしゃみをした。
「子供みたい」
「子供だもん」
そんなことを言い合いながら歩道と車道を区切る柵に私たちは寄りかかり、道行く人々を眺めた。
ミクが私の横で歌を歌う。それは私だけに聴かせるための小さな歌声。でたらめに即興でミクは歌を紡ぐ。その甘い声が奏でる歌声が好きだった。私はミクに寄り添ってその歌声を聴く。ことんとミクの肩に頭を乗せると、疲れた?とその甘くて優しい声で訊いてきた。
「疲れた?ハツネ」
「ううん大丈夫」
そう返事をすると、ミクは再び歌い始めてくれた。
ざわざわと雑音が響く隙間を縫って、ミクの歌声が私に届く。私は応えるように繋いでいたミクの手を強く握り締める。ミクがくすぐったそうに笑いながら歌を歌い続ける。私もまたなんだかくすぐったいものを感じて、くすくすと笑いながらミクの歌に耳を傾ける。
このたくさんの人がいる中、けれど私のことをよく知っているミクはここにいるミクしかいなくて、ミクのことをよく知っている私もこの私でしかない。手をつないでいないとはぐれて見失ってしまいそうな人ごみの中。私はミクをつなぎとめるようにミクの手を握り締める。
実体と離れたら影は消えてしまうのと同じように。きっと私はミクをなくしてしまったら、駄目になってしまうから。
そんなことを思ったら、なんだかこのかなしくて愛しくて、可笑しくて。少し、笑った。
………
ミクは、とハツネがどこか歌うような口調で語った。
「無邪気で、ちょっと子供っぽいところがあって。歌が上手。髪は私と同じ長さで髪型も一緒」
「ハツネに似ているな」
「うん、よく姉妹に間違えられた。ずっと一緒にいたせいかな、私たちは似ていたと思うよ」
そう言ってかすかに目を伏せてハツネはふふふと笑った。
「勉強はでも、ミクは苦手だったなあ。教科書は落書きだらけ」
そうハツネは懐かしむように言った。
午後の柔らかな日差しの中、机を並べている髪の長いふたりの少女がサハラの脳裏に浮かんだ。まるで姉妹のように似ているその二人の少女は教師が板書をしている間、肩を寄せ合い小声でお喋りをしている。教師からの叱責が飛べば、その瞬間はしおらしくするが、すぐに目配せしあい、含み笑いを交わすのだ。
どこか懐かしい匂いのする光景が目の前を通り過ぎて去っていく。まるで車窓を流れる景色のようだ、とサハラは思った。
「そう言うハツネは勉強得意だったのか?」
ふと思いつき、からかうようにサハラがそう問いかければ、得意だったよ、との返事が返ってきた。
「歴史と語学はクラスで一番だった」
「それが本当ならばすごい」
言うだけならばどうとでも言える。半信半疑のサハラの態度に、信じてないな、とハツネは軽く睨みつけてきた。
「休んでばかりだったけれど、その分、本を読んだりしていたから。文系は得意だったのよ」
「休んでばかり?」
「体が弱かったから、学校は休みがちだったの」
ハツネの言葉に、ふうんとサハラは頷いた。病弱だったということなのだろう。今は元気そうに見えるけれど、まだどこか患っているのだろうか?
サハラの視線を受けて、もうなんともないの、とハツネは笑った。
「もう平気。大きくなって丈夫になったのね」
どこか人ごとのように言う。その言葉を裏付けるようなハツネの血色の良い頬に、そういうものかとサハラは納得した。
「それで、ミクとはなんで離れ離れになっちまったんだ?」
サハラがそう問いかけると、ハツネは離れ離れになった経緯を思い出したのか、寂しそうに眉根を寄せた。
「私が、父さんに引き取られることになったから」
私の両親は離婚していて、最初は母さんと一緒に暮らすことになっていたのだけど、いろいろあって、やっぱり父さんと暮らすことになったの。
ため息混じりにそう言って、ハツネは肩をすくめた。
「大人って、勝手よね」
「それは一応大人である俺にとっても耳に痛い言葉だな」
ハツネの皮肉めいた言葉にサハラも肩をすくめながらそう返し、それで、と言葉を続けた。
「それでハツネはミクに会いに、家出をした。と」
「まあ、そういうこと」
小さく頷いてハツネは困ったように笑った。
「ずっと一緒だと思ってたの。自分の隣からミクがいなくなるなんて、考えられなかった。こんな当たり前の毎日に終わりなんかやってこないと思ってた」
そう言いながら、ハツネは窓の外に視線を向けた。
列車は田園地帯に差し掛かったらしく、何も遮るもののなく風景が広がっていた。一面に広がるのは早春の、作物の植わっていない土がむき出しの茶色い風景。面白みもないにもないその風景に手を伸ばすようにハツネはそっと窓に触れて、指先で地平線をなぞった。
「ミクは、ミクも同じだと思いたい。待っていてくれるよね。私がいないことを、ミクも同じように悲しく思っているって、そう思いたい」
そう小さな声でつぶやいた。それはサハラに聴かせるというよりも自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
その横顔は寂しげで、まるで親を見失った子猫のようだとサハラは思った。大きく黒目がちな瞳がゆるゆると潤んでいく。泣き出してしまうのではないか、と思ったが、泣き出すことはなく、ハツネはただじっと窓の外を眺めているだけだった。
「家出して、それでこれからどうするつもりだ?」
そうサハラが問いかけると、ハツネはこちらを振り返り、考えるように少し首をかしげた。さらり、と青灰の長い髪が揺れる。
「家出して、この先どうするかとか全く決めてないの。ただミクに会いたい。ミクに会ってから、この先のことは決める」
そうはっきりと言う。先のことを考えていないという稚気に満ちたその言葉に思わず笑みをこぼしながら、いっそのこと二人で旅人になればいい、とサハラは言った。
「二人で世界を放浪すればいいんじゃないかな」
「二人では旅人になれないと言ったくせに」
「なれない、とは言ってないよ。ただずるいな。と言っただけだ」
そう言ったサハラに、卑怯ね。とハツネは笑った。
蒼の街・3~Blue savant syndrome~
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