目覚ましの音が煩わしくて目も開かずに手を伸ばし、乱暴にスイッチを切る。
睡眠欲に忠実な体は再び惰眠を貪る。20分後に僅かながらの後悔をし、昨日布団に入る前に脱ぎ捨てた衣服に急いで袖を通す。上着だけは律儀に昨日と違ったものを探す。どうせ誰も気づかないと誰に言うでもない言い訳をする。
蛇口をひねる。無駄に冷たい水が流れてくる。顔を洗う。髪をととのえる。少し焦げたパンに蜂蜜をつけ苦味を相殺して口に押し込む。新聞に大雑把に目を通す。モノクロ紙面の文章情報は例の如く現実味を得ない。多量の黒線を視界に入れては流す。
一枚の紙面が急に目に止まる。読み耽る暇もないので、その紙面のみを抜き取り、鞄に押し込む。履き慣れない革靴に足を押し込み、駆け足で家を飛び出す。
せわしなく一定の歩幅で駆ける足先が不意に小石を蹴る。1回、2回、3回、勢いよく跳ねて、小石は水溜まりにダイブする。穏やかだった水面は綺麗な波紋を描く。そういえば昨日は雨だった、となにげなく足を止め、水溜まりを覗き込む。波紋が止まる。長髪の少女と目が合った。
おはよう、と軽く挨拶を交わした。少女が不機嫌な顔をした。少女の世界に切り取られた空は雲の灰色に包まれていた。
雫が頬を打つ。その間隔が徐々に狭まり、ついに雫は線に変わる。少女は同時に姿を消した。
ホームで服の裾を軽く絞る。ぽたぽたと水滴がアスファルトを黒く染める。髪を拭こうとハンカチを取り出す。既に湿り気を帯びている。布地の鞄に入れた紙面は、インクが滲み黒線を乱し、価値を失っている。
溜め息をつき、開く扉から流れ出る人並みに逆行する。手すりに寄りかかるように席の端に腰かける。電車は動き出す。
ガタゴトと音を立てながら電車は進む。乱雑に押し込まれた人々は、みな何かとにらめっこをしている。同じ空間にいながら、みんなが違う世界にいる歪な、一時だけの空間。居心地が悪い。
再び眠気が訪れる。ぼんやりとした視界の隅で電車から降りる親子を見る。慌ただしく飛び出すスーツ姿の男性を見る。最後に、革張りの手帳を見ながら微笑む女子高生が降りていく。ゆっくりとドアが閉まる。同時に視界を閉ざす。
再び開いた視界。自分以外の人間が見当たらず、電車の揺れる音だけが空箱の中に異様に響いていた。
自分の対面の席に腰かける、眼鏡の兎は無表情のまま口を開いた。
「どこへ向かうおつもりで?」
「あいつに会いに行くの」
「それなら次で降りなさい」
「私が降りる駅は私が決めるわ」
「兎について行かなければ、えてして話は進まないものですよ」
兎はここで意味深に口の端だけの笑みをこぼした。
再び、沈黙した。
今何処を走っているのかわからない。窓を打つ激しい雨が外の世界を覆い尽くしてしまっていた。
この鉄の箱はもしかして別の世界を切り取って運んでいるのではないか。
見た目には、空の車内に兎と二人きり。異質なものは兎だけ。けれど、この違和感。この場に今そぐわない存在が私自身なのは確かなことだった。
電車が止まった。けれど私は動かなかった。動けなかった。
扉が閉まり、また動きだした。
動けなかったのは、開いた扉の向こうに
映る世界が真っ白だったから。窓を打っていたはずの雨は開けた外の世界には欠片も様相を見せていなかった。視界を白く染めた霧が微かに車内に流れ込みやがて空気に溶けた。
「次こそは降りなさい。でなければ帰れなくなるよ」
「帰るって?私は''行く''のよ」
「行く為には帰らなくては。帰らなくては何処へも行けなくなる」
「今私たちが向かっているのは何処?」
兎が椅子から飛び降りて私の前に着地した。スッと私の鞄から取り出したのは、濡れて読めなくなってしまった新聞記事。
腰から提げた懐中時計の針をくるりと一回転させると湿り気が消え去った。
開いて私に見せたそれ。
「これと同じところだよ」
理解した。帰らなくてはと。
次の駅が近づくにつれて速度が落ちていく電車。出口に足を向けた。ゆっくりと扉は開き、その先はやはり見えない。最後に1つだけ訊きたくて振り向き様に質問をした。
「あなたはだあれ?」
「…そんなことは言うまでもないことですよ」
兎は呆れたような笑みを顔に張りつかせていた。
「私の仕事は終わりましたのでとっとと帰らせて頂きますよ。御主人が待っているからね」
とん、と突き放され、真っ白な世界に身を投げ出した途端に浮遊感。
叫ぶ間もなく、落下、落下、落下……。
「次からはもっと前を見て歩きなさいな。また迷子にならないように」
最後に見えたのはあの意地の悪そうな兎のひねくれた笑顔。そしてあの長髪の少女が、兎の横で、落ちていく私を見下ろしていた。
落下
落下
落下
落下
落下……
トスッ…
温かな感触がして目を開いた。
あ、本当に会えた。
そう思っていたら軽く頭を小突かれる。
「歩きながら寝てるなよ。落ちるところだったぞ」
肩越しに覗いた先は駅の下り階段。
さっきまでのは夢?でもいつの間に電車から降りたんだろう。
階段途中で立ち止まる2人を、人の波は岩を避けるように流れていく。ここは確かに元の世界。
ジトリと肌に張り付く煩わしい感覚。水を吸って元の色より少し濃い色彩になった上着は先程の雨の名残をきちんと残していた。
やっぱり夢だったのかと自分でも不思議なことに落胆するような溜め息がでた。上着を脱ごうとボタンに手をかけると、彼が呟いた一言に驚いた。
「昨日と同じ服だな」と。
私は昨日彼に会ってはいないのに。
いや、見たことは見たけれど。
伸びきった繊維のような細く縮れて惰性で繋がっているような付き合いを続けて、きちんと会うのなんか本当に久々だったんだ。会ったらどうしようかなんて浮かびもしてなかったのに。
ああ、そんなに優しい顔を向けられたら。
『前を見て歩きなさいな。また迷子にならないように』
兎の声の空耳が背中を押した。
意識しても、前を見ても、
先に楽しみを見いだしても、
それが許されるなら
「あのね――」
2人で不思議の国でも探しに行こうか。
あの新聞記事は駅のごみ箱に投げ捨ててきた。不思議と乾いていたのだけれど。あんな風にはなりたくないもの。
繋ぐ君の手はとても温かで。
ねぇ、今日はどこへ行こうか。なんて、私はいたずらな笑顔を向けて君の手を引いた。
通りのショーウィンドゥの中からあの少女と兎が笑顔でこちらを見ていた気がした。
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