【海人サイド】
「私には……、戸籍が、ないの」
彼女は確かにそういったのだった。
「へ……?」
自分でも思わず、間抜けな声を出す。戸籍って、あの?自分の身分や、出生を証明する、あの?
しばらく解釈に戸惑ったが、そんな俺をよそに、グミは言葉をつづける。
「みんなが持ってる、当たり前のもの。私はそれを持ってない。理由は……今は、まだ言えないけど。でもとにかく、持ってないの。だから……結婚なんて、しようがないの」
グミの声は、悲しかった。とても、切ない声だった。
「私なんて……、この世にいないも、同然なんだから」
この世にいないも同然。
その言葉が、一番重たくのしかかる。グミも、辛酸をなめながら、声を出しているかのようだ。
その様子が見ていられなくて、気が付いた時には叫んでいた。
「……ふざけんな!!」
「っ……、ふざけんな、か……そうだよね。そんなこと言われるのも、当然だよね。こんなこと言ったら私のこと、信じられなくなるのが普通だと思う。今まで隠してて、ごめんなさい。ホントに、ごめ――」
「違う、俺が言いたいのはそんなことじゃない!」
「え……?」
多分、あてが外れたのだろう。
表情は見えないが、彼女の顔は少し戸惑っているのが想像できる。
「戸籍だか史跡だか打席だか知らないけどさ。だからってなんなんだよ。戸籍がないから結婚できない?ふざけんなよ、そんなもん関係ないだろ。そんなんで、俺の心が変わると思ったのか?」
「えっ……」
「俺が今ここで話してる相手は誰だ?グミちゃんだろう!?俺は認めるよ!」
「っ」
息をのむ音が聞こえた。彼女は今、どんな表情をしているのだろう。
相変わらず背中を向けているので、その顔が読み取れない。
「どうして?戸籍ないんだよ?私のこと、おかしいとは思わないの?こうやって背を向けてるのだって、何か後ろめたいことがあるからとか、そういう風に考えないの?」
「気にはなるよ。でも、グミちゃんが話したくなかったらいい。戸籍なんてなくたって大したことじゃないさ。俺とグミちゃんの関係は変わらない。俺はグミちゃんのこと、認める。他の誰が認めなくったって。ああ、認めるさ」
「……」
「だから、もう一度言う。自分のことを、捨てちゃだめだ。死にたいとか、この世にいないのも同然とか、絶対に言うんじゃない」
「……」
「……」
しばらく、沈黙の時間が続く。お互い、何も言葉を交わさなかった。まるで時が止まったかのようだ。
そのまま2、3分経っただろうか。背中の向こう側で、鼻をすする音が聞こえた。
「認めるなんて…、そんなこと言われたら、私は……、私はっ……」
言葉にならない声で、時折嗚咽を繰り返すグミ。
それでも、彼女はしゃべり続ける。声は次第に湿っていった。
「私は……いったいどうすればっ……」
やがて顔を両手で覆う彼女。その様は、見ているには痛々しかった。
だから、俺は自然と彼女をまた、背中から抱きしめていた。何かで支えていないと、グミは倒れてしまいそうだったから。
「今日くらい、何も考えるなよ。俺がいるからな。だから、何も嫌なこと、考えるんじゃない」
そう言ったら、グミはついに、泣き出す。
きっと、心のタガが外れたのだろう。もう彼女は、嗚咽や声が漏れるのも気にしていなかった。その声は、きっと彼女の心の叫びに違いなかった。
時折何か言葉にするものの、それは嗚咽に混じって聞き取れない。
俺に何か伝えるというよりも、きっと感情がこみあげて、心の内を、すべて吐き出しているのだろう。
それでいい。たまりすぎたストレスは、一気に吐き出してしまうのが、一番いい。
「私はっ……誰も………したくなんか、なかったっ……!!」
俺は黙って、グミを抱きしめ続ける。彼女が、ここにいるという証を示すために。
「もっと、もっと早くに、……てたら……私はっ……私はっ……」
「大丈夫。な、だいじょうぶ」
そういって、彼女を抱きしめ続ける。
夜空の月はもう、さっきよりも、だいぶ高かった。
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