〈前編から〉
アパートの階段を下りて見た世界は、真っ白く、生まれたての朝のように明るく広がっていました。
マスターの部屋で起動した時から記憶のはじまるわたしは、【塩】のない世界を知りません。
初めてひとりきりで歩く【塩】の道は、私の足元でさくさくと音を立てて、まるで知らない道の様に新しく見えます。通りや家々の隅の狭くなった所には、持ち主に捨てられたいろいろな道具や茶色く枯れた樹が、【塩】に埋もれかけてぽつぽつとあるのでした。
人々は、頭から帽子や布をかぶって、マスクをして俯いて歩きます。いろんな色や形の帽子が同じように白く染まってよちよちあるくすがたは、ネット番組でみた雪帽子、あるいはペンギンのようです。ペンギン、かわいいですね。
……【塩】には、毒があるのだそうです。
もとはといえば人が降らせたというのに、それはとても不思議なことです。
マスターはあまりその話をしませんが、わたしはラジオで聞いたので知っています。
ラグランジュ点にある静止衛星施設の故障が始まりだそうです。知ってはいますが、よくわかりません。わたしは、ひとりラジオの前で首をかしげて聞きました。
遠い街が、毒の廻った人々ごといくつも埋まったそうです。手に手を取り合って【塩】に埋もれて息絶えてしまう人々の、悲しい話があちこちにあるそうです。そういったことも、はじめからこの世界に目覚めたわたしには、ラジオの中の人々が声を震わせて言うような特別なこととも思えず、世界とはそういうものなのなのにと、シンプルに理解をしていました。
この街は、風向きのせいで【塩】が、少ししか降らない地域なのだそうです。
遠い街から人が遷ってくる事が増えました。それに、もっと暮らしやすいどこかを探して、去っていく人も増えました。
前をあるく女性が、こほこほと咳をしました。それを見てわたしは、今日の目的を思いつきます。
……そうです、今日は、わたしは、市場に行ってみましょう!
家で待っている元気のない人へのお土産といえば、『トマトと牛乳』です。または『一日一個のりんご』です。そうでなければ『栄養のあるうなぎ』です!ラジオのお話の時間にそういっていましたから、間違いありません。
今、街の人々が生の素材を見ることはほとんどないはずです。貴重な食べ物は、無駄無く調理された状態で流通しているからです。
元気の出る生の食べ物を持って帰れば、きっとわたしはマスターに褒められるでしょう。マスターは喜んで、元気になって、毎日早く帰ってくるようになって、そうして、もっと私と歌をうたってくれるようになるかもしれません。
バス停には人が立っていました。
「市場へ行きますか?」
私は声を出して質問します。その人は、だまって頷きました。
そうやってちゃんと確認したはずなのに、到着したバスに乗り込もうとしたわたしは、運転手さんに怒られてしまったのでした。
「お金! 用意してないなら降りて!」
わたしがびっくりして命じられた通りに降りると、後ろに並んでいた人がすれ違いながら言いました。
「バスカードないの」
皆、お財布、のようなものを、タッチパネルに押し当てて乗ってゆきます。
……お財布。そうです、おさいふです!
わたしは、私には大きすぎるマスター革ジャンのポケットをさぐって、マスターのお財布をみつけました。列の最後尾について、問題なく乗り込む人々の真似をして、バスの機械にそれを押し当てると……今度は乗れました! すぐに発車した車に揺られて、わたしは感動する間もなく、振り回されるように空いていた席に座りこみます。
ああよかった。ほっとしました。
それにしても、カードとはなんのことだったのでしょう。私は膝の上で、握りしめていたマスターのお財布を開いてみました。外側と同じように所々色の剥げた黒革のポケットに、何枚ものカードがはちきれそうに詰め込まれてありました。その、一番上の一枚を、私は、ぐいぐいと引っ張り出して眺めます。
そこには、わたしのマスターがいました。
見たことのない黒い服を着て、しかつめらしい顔付きで、IDカードの写真欄に収まっていました。
ああやっぱり!
マスターがわたしを、助けてくれたのですね!
市場は、とても広いコンクリートの施設でした。
施設の大部分を占める広い広い駐車場の大半には、うずたかく【塩】が積みあげられていて、もはや、誰にも使われていない部分の多い事が推測されました。
【塩】の掻かれた細い道を歩いて入った施設は、コンクリートの柱の合間に空洞と空き箱があるばかりで、人気というものがありません。わたしは、ぽつぽつとそこを歩きまわりました。だってわたしは『トマトと牛乳』を手に入れなくてはならないのです。
行き止まり、引き返し、曲がり角……、あちこち歩いた末にようやくわたしは、入り口近くの柱の影に、取り残された段ボールをまとめている人をみつけました。
「あの」
キツく半面マスクをつけたその人は、わたしをジロジロと見返します。
「あんた、こんな所で何してる」
「あのう、お店はどこでしょうか? わたしは『トマトと牛乳』が欲しいのですが」
「こんな時間に来たって何もありゃしないよ。だいたい……なんだって? 今時分に、そんなもの!」
わたしは、悪いことを訊いてしまったのかもしれません。その人は少し、怒ってしまったようでした。
「お気に障ったのならすみません。それでは、えと、『りんご』か『うなぎ』でもいいのですが」
「バカなことを!帰んな! そんなことより自分のマスクでも探しにいったらどう…………あんた、人間じゃないな」
わたしはビックリしてしまいました。そうでした、わたしはアンドロイドだとバレてはいけないと、マスターに言いつけられていたのでした。わたしは勢い良くお辞儀をしてから、急いでその人の前を逃げ出しました。
困ったことになりました。生の食べ物を見つける事は、思っていたよりずっと難しいことのようです。私が考え込みながら、広い構内を急ぎ足で歩くと、入り口すぐの、人のまばらな広場のステージで、通り過ぎる人々へ大声をだしている人がいるのに気がつきました。ステージです! なんでしょう。気になります。
もはやすべてがおわるのだ!
せかいのおわるあさがきたのだ!
くいあらためよくいあらためよ!
……そこで奏でられていたのは、歌、などではありませんでした。
マスクに篭った声の所為で、何を言っているのかよく判りませんでしたが、私の耳は精確に、そのひとの声の中から、苛立と、怒りと、絶望の波形を拾いました。
……どうしたことでしょう。
私が考えていた様子とは、すべてが違ってしまっているようです。
わたしはなんだか不安になって、急に、マスターに会いたいと思いました。何もうまくいかなかったけれど、またあのバスに乗ってわたしのマスターの元に帰れるのなら、失敗の痛みなんて、たいした問題ではなくなるような気がしたのです。
その悲しい演説の切れ端を耳に入れながら、帰りのバスを待つ列に並んだわたしは、【塩】に埋もれかけた市場のいろいろを眺めました。その隅の塵捨て場だったらしい場所では……、何かいけないことをしたのでしょうか、飼い主のいない犬が、棒で打たれ始めたところでした。
……ここはいやです。ここはこわいです。
わたしは早くあの小さなアパートに帰って、マスターの声を聞いて、いつものように台所で休みたいと、強く思いました。ポケットの中でマスターのお財布をぎゅっと握りしめても、バスは、なかなか来てはくれません。
わたしははじめて、ひとびとがつけている苦しそうなマスクを羨ましいと思いました。一枚でも多く、わたしを守ってくれるものがあればいいと、そう思ったのです。
◆
一刻も早く帰ろうと、マフラーに顔を埋めて、うつむいて、一生懸命に早く足を動かしていたわたしは、聞き慣れた高いノイズに顔を上げました。
……ドアの開く音。
わたしのマスターが、アパートの部屋から、ちょうど出て来たところでした!
わたしは夢中で、白く【塩】のこびりついた塀を廻り、カンカンと音をひびかせながら、アパートのステンレス製の階段を駆け上りました。顔を上げたマスターに、飛びつくように、しがみつきます!
「……おかえり」
マスターはわたしが目一杯に広げた腕の中から、背負っていたギターケースをすぽっと引き抜きました。お陰でわたしは、ギター抜きのマスターを、抱きしめられます。(ギターごとのマスターは抱きつくには太すぎて、実はちょっと失敗したと思っていたのです)
「マスター、マスター、マスター、」
首を傾げてわたしを見下ろすマスターは、見慣れたニット帽にギターケース。いつものように、弾き語りに出かけるつもりだったのに違いありません。わたしを置いて!
「マスター!」
そう呼んだ私の声には、責める調子がありました。
「もう一回、言ってみろ」
だから、マスターにそう言われたとき、わたしは逃げるように、マスターから腕をほどいてしまったのです。
けれどもわたしのマスターは、不思議そうにわたしを見ただけで、怒る事もなく、軽く握ったげんこつで、マスターの革ジャンに包まれた私の胸を、語りかけるようにトントンとつついただけでした。
「ミク、もう一度、声出してみな?」
「ーーマスターー」
マスターは、白い歯を見せてにっこりと笑います。
「声、変わったな」
「えっ?」
マスターはわたしから脱がせた革ジャンを着て、なんだか、歌うように言いました。
「【塩】が、ここに溜まる」
マスターの伸ばした指が触れたのは、わたしのみぞおちの辺りです。
「呼吸の度に少しずつ降り積もって、ずうっと上がって喉まで来たら……お前は、声が出なくなってしまうんだ」
「? メンテナンスセンターを、ご案内しますか?」
「いいや。もうどこにも部品はない。替えはきかない。……生きるってのは、音楽っていうのは、そういうもんだろ」
「?」
「お前も俺と同じだよ」
マスターの言う事は、いつものようによくわかりません。でもその最後の言葉で、わたしは安心しました。帰って来ることができて、ほんとうによかったと思いました。
「それでマスター! 今日はどこで歌いましょうか?」
「そーだなー、どうすっかなー。……お前は、どこが好き?」
「わたしはここが好きです!」
マスターはくすっと笑いました。
「ここか、 それもいいな」
そう言うとマスターは足元の階段に座り込んで、わたしの腰を抱き寄せ、胸に耳をしっかりと押し当てました。
「歌ってみろよ」
そこで私は、マスターの一番好きな歌をうたいました。
歌いながらよく注意をして耳を澄ませると、息を吸うたびに、歌に合わせて、わたしの【肺】の中で、サラサラと何かが動く音が聴こえます。
その音を聞くマスターが嬉しそうなので、わたしもだんだん嬉しくなって、もっとと息を吸いました。そうすると、わたしのちいさな【肺】の中で嵐が起きて、巻き上げられた【塩】が、チリリチリリと美しい音で鳴り響きました。(硬度の高い【塩】は、擦れると、鈴のような高い響きを奏でるのです)
「……ミク。壊れるまで、俺と歌ってくれるか?」
マスターが私の胸に耳をつけたまま言うので、
わたしはなんだか胸が詰ったようになって、息が苦しいような気持ちになりました。
詰まった【塩】のもたらす不具合のせいでしょうか、でも、なんだかとてもいい気持ちです。
……好きです、マスター、大好きです。
あなたのために、歌わせて下さい。
あなたの顔を見上げられる距離を、どうかわたしに許してください。
わたしの手を離さないで、いつかこわれる機械のわたしを、このわたしを必要として下さい。
私にはあなたが必要です。
「はい」
わたしはただひとことそう答えて、マスターの隣に座りました。
そして、マスターがギターのソフトケースのファスナーを下ろすのを、とてもとても幸福な気持ちで見守りました。
わたしは、わかりました。
わたしになにができるか、今日わかりました。
……マスターも、マスターの見た夢もきっと、今日見たたくさんの街や人々と共に、雪のように積もる【塩】に埋もれてしまうのでしょう。
でも大丈夫です。私はきっとその為に来たのです。
あなたの夢が、あなたの歌が、埋もれてしまうその時がきたら、その時はどうか、わたしをそのかたわらに埋めて下さい。
わたしはこの機械の身体で、あなたの夢のなかで鳴り響く拍手を守ります。
腐ることないこの身体は、忘れる事のないこのメモリは、雨がふっても溶けない塩よりも長く、あなたの夢を守ることでしょう。
いつか塩の春がきて、溶け出す遠い未来まで、
わたしはきっと、あなたの夢の守人になりましょう。
ちらちらと、白くて軽い【塩】に降られながら、マスターが、ギターの弦をキュウキュウ音を立てて締めます。
聞き慣れたチューニング。
安物ギターに張られた伸びた弦の、すぐに歪んでしまう音色。
ここから産まれる音楽が、私のすべて。いとしい、守るべき、わたしの生きる証です。
「マスター、次はどんな歌ですか?」
もっともっとわたしに、教えて下さい。
始めてのおつかいからは逃げ帰ってしまったわたしだけれど、もう失敗はしません。
だって、次のおつかいに出かける時わたしは、ひとりではないのです。
あなたの預けてくれる夢を大切に携えたなら、わたしはきっと、千年先までも行けると思うのです。
〈了〉
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