私が俯いて何も言えずに黙り込んだままだったので、既に日が傾き始め夕日が辺りを赤く染め上げている屋上には、しばらくの間吹き抜ける風の音だけが静かに響いていた。
そのままどの位時間が経ったのだろう。私の沈黙から何かを感じ取ったのか、先程までの強い調子とは打って変わっていつもの調子に戻った初音さんが、優しい声で話し始めた。
「ちょっときつい言い方だったかな…? でもその様子だと、わたしの推測、大体当たってたみたいだね。大丈夫。わたしはあなたの事もっと知りたいとは思ってるけど、知ったからってあなたを否定なんてしないよ? 人は一人ずつ違うのが当たり前なんだから。」
そこまで言ってニコリと笑った後、彼女は両手でそっと私の手を取り包み込む。優しく触れてきた彼女の手はとても温かかった。
彼女のその行動に私は思わずビクリ、と逃げる様に手を動かす。しかし手を離す事はしなかった。いや、できなかった、という方が正しいだろう。
なぜならこの時私が、人とのふれあいに疲れてから今までずっとそれを拒絶していたはずの私が、触れている手のその温もりがとても心地良いと、この手を離したくないと思い始めていたからだ。
(あったかい…。なんだか安心する。このままつないでいたいな。あれ、なんで私こんな事考えてるんだ!?)
そんな自分に戸惑っている私の手を握りながら、初音さんは話を続ける。
「人は辛い過去の事は簡単には忘れられない。でも同時に、その辛い過去さえ乗り越えていける力も持ってるとわたしは思うの。だから今すぐその心の傷を無くすのは無理でも、あなたに『人とふれあいたい』って気持ちがあるなら、これからまた始めていけばいい。もちろん、演技なんか無しのそのままのあなたで、だよ。」
そして最後に眩しい位の笑顔を私に向けると、こう言った。
「だからまず、今はわたしの事を信じて一緒に部活やってくれると嬉しいな! 怖がらないでもう一度やってみようよ。それで、わたし達と一緒に楽しむの! ね?」
初音さんのその言葉に、私は顔をあげて以前からの疑問を口に出す。
「…どうして? どうしてキミはこんな私なんかを誘ってくれるの? あんなに断ったし、ひどい言い方だってしたのに。私より歌が上手い人なら、他にも居るのに。」
私の疑問に対して、彼女は何の迷いも無くすぐに答えを返してきた。
「それはね、あなたも歌うのが好きだって事が分かったから、だよ。」
私は彼女の答えに目を見開いて驚き、聞き返す。
「え…? 確かに好きだけど、それだけで!?」
驚きのあまり、最後の方は自分でもビックリする程声が大きくなってしまっていた。たったそれだけの理由でここまで私を気にかけてくれていたというのが、信じられなかったのだ。
そんな私に対して、彼女は翡翠色の瞳を輝かせながら力説する。
「それが一番大事なんだよ! わたしを含めて合唱部の皆は、歌うのが大好きで楽しんでやってるの。だから一緒に歌う仲間もそうだったらもっと楽しめるでしょ? わたしが『あなたなら即戦力』って言ったのは、ただ歌が上手いってだけの意味じゃないんだよ!」
私はその勢いに多少押されながらも、反論する。
「ダ、ダメだよ。この前あんな態度とっちゃったからきっと他の人達は反対するに決まってる。」
すると彼女は私を勇気づけるためか、握ったままだった手に力を込めながらこう言った。
「大丈夫! うちの部は歌が好きな人は大歓迎だから心配無いって! あのテストの日の菊音さん、歌ってる時本当に楽しそうで、歌うのが好きだっていうのが伝わってきたもの。それでわたし、この人と一緒に歌ってみたいな、って思って誘ったんだよ。あなたの歌が好きになっちゃったんだ! きっと皆にも伝わるって!」
彼女のその励ましに対して、私は首を横に振って否定しながら答える。
「いや、例えそうだとしてもやっぱり無理だよ。だって合唱はチームワークが重要でしょ? 私、今更人と上手くやっていく自信なんて無いからさ…。」
そこまで言って一息置いた後、私は自分の意思がはっきり伝わるよう、彼女の目をしっかりと見つめる。そして今の自分の正直な気持ちを言う。
「私が参加したら、キミにも他の人達にも迷惑がかかる。こんな私に優しい言葉をくれたキミに、迷惑をかけたくない。だから、一緒にはできない。」
こうして再び誘いを断りはしたが、最初の時の様に『人と関わるのが嫌だから』断ったのではない。また、決して初音さんの事が鬱陶しいわけでも、嫌いなわけでもない。むしろこの短時間で彼女に好意を持ち始めていた。それこそ、もう一度人を信じてみても良いかもしれない、と思ってしまう程に。
彼女の優しい言葉と誘ってくれた理由は、私にとってそれ位嬉しかったのだ。そしてそれらが自己満足の偽善からくるものではないという事も、彼女の態度から伝わってきた。先程私があんな風に考えたのも、触れた手の温もりから彼女のその優しさが伝わってきたからなのかもしれない。
…そう、彼女は優しい人だ。だからこそ私はしっかりと断ったのだ。今回断った理由、それは、私のせいで心優しい人に迷惑がかかる様な事は二度と起こって欲しくないという想い、ただそれだけだ。かつての友人の時の様に、私が原因で誰かに迷惑をかける事になるのはもう嫌だった。
私の断りの言葉を聞いた後、初音さんは静かにこう言った。
「…そっか、それもあなたが一人で居る理由の一つだったんだ。菊音さんって、優しいんだね。」
私はそれを自嘲気味に否定する。
「優しい? 違うよ。私は単に自分のせいで誰かに迷惑がかかるのを、もう二度と見たくないだけ。自分のためであって、人のためなんかじゃない。キミとは違うさ。」
更に、私は彼女が再び何かを言う前に感謝と謝罪の言葉を述べる。
「私の事誘ってくれて、心配してくれて、ありがと。凄く嬉しかった。でもそういうわけだから、ごめん。」
言い終えた後、つないだ手をゆっくり離す。そして最後に、演技の笑顔ではない、心からの笑顔で別れを告げる。
「ま、とにかく、私はこのままでも平気だから。今までも大丈夫だったし、心配無いって! 今日はキミみたいな人とゆっくり話せて良かったよ。それじゃ、サヨナラ!」
私は今度こそ本当に帰るために初音さんに背を向ける。今度は彼女も何も言ってこなかった。
(あれ? 何か言ってくるかと思ったけど、意外と静かだな。納得してくれたのかな?)
気になった私がちらり、と彼女の方を振り返ると、彼女は何故か目をパチクリさせて驚いた様な顔をしていた。そして
―ぎゅっ
「え、は、初音さん!?」
次の瞬間、私は彼女に抱きしめられていた。
「もうっ! そんな笑顔見せられたら、余計放っとけるわけないでしょ! もっと見たいって思っちゃうじゃない!」
そう言いながら、彼女が私に抱きついてきたのである。
私は彼女の予想外の行動に思わずパニックに陥る。
(ちょ、ちょっと待って、何この状況!? どどど、どうしてこうなった!? ふ、普通に笑うのは久々だから何か変だったかな?!)
そんな状態の私を抱きしめつつ、彼女は力強くこう言った。
「迷惑かけたって良いじゃない! 友達とか仲間はそういう事もあってこそ仲良くなれるんだよっ!」
私は抜け出そうとあたふたしながらも、なんとか声を絞り出す。
「いや、あの、でも、私とキミとは別に友達でも仲間でもないし、迷惑かけるわけには…。」
それに対して彼女は、私にとって信じられない言葉を返してきた。
「何言ってるの? わたしと菊音さんは、もう友達だよ!」
「え…?」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭は真っ白になった。そして抜け出そうとしていたのも忘れて、ただ茫然とする。
友達。それは独りで居る事を決めた私にとって、二度と縁が無いはずの言葉だった。だから私は、その事実をすぐには受け入れられなかったのだ。けれど今、彼女は間違いなく私に向けて言った。自分と私は友達だ、と。
初音さんが言ったその言葉を、私は確かめる様に繰り返す。
「友、達…? キミと、私が?」
私の問いに、彼女は一旦抱きつくのを止めて離れる。そして笑顔で、さも当然とばかりに力強くこう答えた。
「うん、そうだよ! だって菊音さんは今日わたしに、演技じゃない本当のあなたを見せてくれた。自分の正直な気持ちとかも、話してくれたじゃない! それに、わたしとあなたは今こうして語り合ってるでしょ? だから、わたし達はもう友達なんだよっ!」
私はその説明を聞いてもいまだ信じられず、茫然としたままだった。そんな私に構わず彼女は話を続ける。
「というわけだから、迷惑かける、なんて事気にしなくて良いの。さ、これで問題無しだねっ! よし。じゃあ早速次の活動日に一緒に行こう、そうしよう!」
そこまで話が進んだ所で、私はようやく我に帰る。そして嬉々としている彼女に、焦りつつ再び断りの言葉を伝える。
「いや、入らないって! 足手まといになるからダメだってば!」
「えっと確か次の活動日は…。それまでに…。」
しかし反応は無い。私の声は彼女には届いていないようだった。どうやら既に、これからの予定を立てる事に集中しているらしい。私はその様子に呆れるしかなかった。
(そういえばすっかり忘れてたけど、初音さんには結構強引な所もあったんだっけ…。なんかこの勢いだと、またこの前みたいに引きずられてでも連れて行かれそうな気がする。でも…)
それもまた面白いかもしれない。
そんな事を考え、自然と笑みがこぼれる。その場面を想像したら、なんだか可笑しくなってきたのだ。
(あはは! なんか、初音さんと一緒だと楽しくなりそうだな。)
私はいつの間にかそう感じていた。誰かと居る事を楽しいと感じるのは、本当に久しぶりだった。彼女には優しさだけでなく、何か不思議な魅力もあるのかもしれない。
そんな事を考えながら、私は改めて初音さんの方を見る。彼女はまだ一人で考え事を続けているらしく、声を掛けても気付きそうになかった。仕方無く私は、先程彼女が言った言葉についての思考に耽る事にする。
(それにしても、迷惑かけてこそ仲良くなれる、か。私を友達って言っただけでも驚いたのに、まさかそんな事まで言うなんてね。そんな風に考える人も居るんだ…。そういう考えの人と一緒に居たら私も変われるかな? 彼女と一緒なら、もう一度人を信じられるかな?)
やがて思考は一つの可能性に辿り着いた。私はそれについて自問自答する。
(けど、私は本当に変われるんだろうか? 私には、また人を信じられる様になる自信なんて無いよ…。それに、大勢と一緒に居るのはやっぱり苦手だ。変わるなんて無理な気がする。でも今、私は彼女と居て楽しいと感じてる。どうしてかは自分でもよく分からないけど、それは事実だ。なら、どうするのが一番良い? これまで通り過ごすべきか、それとも…。私は、どうしたいんだろう?)
そこまで考えた所で、私は彼女に気付かされた自分の本当の気持ちを思い出す。その後に彼女が言ってくれた数々の温かい言葉と共に。
(そっか。変われないんじゃない。変わる気が無かっただけだ。否定されるのが怖いだけじゃなくて、人が嫌いになってもいたし。だから私は独りの世界を作り出してそこに閉じ籠った。それが一番良いと思ってた。でも、彼女はそんな私に一緒に楽しもうと言ってくれた。友達だと言ってくれた。世界の外に出ようとしない私に、笑顔で手を差し伸べてくれたんだよね…。)
彼女は、私を受け入れてくれた。それに今、なにより私自身が彼女と一緒に居たいと感じている。
答えを出すのには、それで十分だった。
そして私は思考に耽るのを止め、ある覚悟を決める。それは、あの日の決意を捨てて自分を変えるという覚悟であり、もう一度人と向き合うという覚悟。
(…もう一度だけ、頑張ってみるか。)
これが、私の出した答えだった。
私の中でずっと止まっていた何かが、動き始めた気がした。
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