流浪の民
見上げた空は光り輝き、どこまでも蒼く、そして恐ろしいほどに透き通っていた。穢れ一つない青い空。それは誰もが言うように、本当に天上の世界へと続いているのだろうか。
風もなく、水もなく、また、生きるものもなく。瞳を焼くまばゆい太陽から目を背けると、乾燥しきった灰色の大地は、ただ死んだように存在しているだけだ。陽炎に揺らぐ地平線の彼方まで、荒涼とした風景が延々と続き、空の青さの他に色はない。
砂漠とは、幽玄と夢幻が交錯する場所。今生で最も死の国に近い場所。
そのただ中に立ち止まった旅装の青年は、滑り落ちてきて視界を遮ったターバンの長い端を背に追いやる。一緒に、矢車菊の花の色をした長い髪がふわりと舞った。
「なんと苛烈な。大いなる神は我にも業火の試練をお与えか。しかし、風がないだけありがたいもの」
遮るもののない砂漠の日中は、噴き出した汗さえ一瞬で蒸発し塩と化す。木陰では憩いをもたらす風も、ここでは熱風の刃となって肌を焼き、旅人たちを苦しめるだけだ。
強烈な日差しに目を細め、青年は軽く顔を歪ませ咳払いした。口の中が酷く乾燥して、かすれた声しか出なかったからだ。
ターバンの下に流された癖のない長い髪は、過酷な旅路を象徴するように、すっかり艶を失い、端正な白い顔も埃にまみれ薄汚れていた。だが、天上の青を写した大きな瞳だけは、まるで冷たい水を湛えたオアシスの泉のように汚れを知らない。知性と慈悲と、そしてほんのわずかの憂いを滔々と湛えている。
青年は少し考えてから、手にしていた粗末な杖を土に刺した。それから背負っていた袋と赤い房の並んだ竪琴、そして腰に佩いていた刀を剣帯ごと外して足下に下ろす。マントの中に手を差し入れて懐を探り、お目当てのモノに指先が触れると、それを掴み取り静かに後ろを振り返った。
「お前たち、こっちにおいで」
女性にも似た美しい声が呼びかけた先には、みすぼらしい衣服を身にまとった幼い少年と少女が寄り添っている。青年から二十歩ほど離れて、じっとこちらを窺っていたのだ。
青年の声を聞いて、怯えた顔をしていた少女はぱっと顔色を明るくした。翡翠の瞳を輝かせ、少年を見上げて何事か言う。だが、少年はすぐさま恐い顔で首を横に振って否定した。蒲公英色の髪が、ぼろぼろになったターバンの下で勢いよく跳ね上がる。
そんな二人の様子を見守って、青年は思わず苦笑いした。
彼らが警戒するのも無理はないだろう。一昨日の晩、夜陰に紛れて、逃げるように焼け落ちた街を後にしてからこの二日間。いつの間にやら着いてきていた彼らを振り切ろうと、何度も足を速めたり、時には刀を抜いて『街へ帰れ』と脅したりもした。
もっともそれは彼らを案じてのことである。
砂漠を越える。それは一歩間違えば死と隣り合わせの、己の命をかけた行為である。小さな彼らには厳しすぎた。
しかしどんなに追い払われても、撒かれそうになっても、二人は決して諦めなかった。追い払われると一旦は遠く離れるが、様子を窺いながらつかず離れず後を追ってくる。こうなってしまっては、もはやこの砂漠に幼い彼らを放りだすのは、無慈悲以外のなにものでもない。
青年は懐から取り出した小袋を見せて敵意がないことを示しながら、ゆっくりと彼らに歩み寄っていく。
「ここまで来たら、お前たちだけで帰るなど不可能だろう。二度とあの街へ戻るつもりがないのなら、私と一緒に行こう。もう、追い払ったりしないから」
近づいてくる青年を前に、少年は少女を護るように一歩踏み出し、三日月のように湾曲した小刀を手にして低く身構えた。少女は少年の袖にギュッと掴まって震えている。
背格好も似ていて、恐らく二人は双子なのであろうか。愛らしさも残す少年の整った顔は酷く汚れていたが、その翡翠の瞳は強い意志を湛えて煌めき、見る者に強烈な印象を与える。
敵愾心を剝き出しにする少年を前に、ぎりぎり刃の間合いが届かない所まで来て、青年はスッと自然な動作で腰を落とした。
予想もしなかった行動だったのか、二人は揃ってビクリとする。青年は目を細めて笑い、小袋の中から取り出したものを彼らに向けて差し出した。その手のひらに乗ったものを見て、彼らはさらに驚いた顔をする。
大きな干しナツメが二粒。
乾燥に耐えるこのオアシスの産物は強い甘みと栄養を持ち、砂漠を行く旅人たちの重要な食料である。
少年と少女は顔を見合わせ、小声で相談し始めた。
「どうするの?」
「どうするって……」
「だって楽師さまが『一緒に行こう』って言ってくださったんだよ?」
「分かってるよ。でもまだ油断なんかできないだろ」
「じゃあ、どうするの?」
少女に問われ、少年は答えに窮する。困惑した顔で青年の方をチラッと見た。青年はただ微笑んでいる。彼らの気持ちを察してか、急かすことをしない。
沈黙が彼らの周りを踊る。口を閉ざせば、ここには吐息の音しか残らない。
ややあって、ハッとした少年は構えていた短刀を急いで腰に吊した鞘に収めた。相手が丸腰であるのに、刃を向けるのは神の教えに反するかもしれない。
「ありがとう。さあ、安心してお取り」
少年の反応を見て取って、青年はそう応えた。
もう一度少年と少女は顔を見合わせる。真剣な目を合わせて何事かうなずき合ってから、少女としっかり手を繋いだまま、少年はおそるおそる震える手を伸ばす。ナツメヤシの実を取る瞬間、手がガクッと大きく震え、青年の白い手に少年の手が触れた。確かなぬくもりとぬくもりが重なる。
「あっ!!」
相当びっくりしたらしく、少年は干しナツメを引っ掴んで凄い勢いで手を引っ込めた。胸に抱いて、目を白黒させている。
「ふふっ、ハハハハッ」
一瞬、驚いた顔をしたものの、少年の仕草に和まされ青年は噴き出した。口元に手を当て、声を立てて笑う。その笑い声さえも、風の音のように涼やかだ。
笑い続ける青年につられたのか、少年の影に隠れていた少女も、すぐにくすくすと笑い出した。
「な、なんだよぅ!」
バツが悪かったのか、軽く頬を染めた少年は口を尖らせる。ギュッと力を入れた拍子に手の中にあるものを思い出し、少年は干しナツメを一粒少女の手に握らせた。
「ほら。慌てて一口で食べちゃダメだぞ。少しずつ食べるんだ」
「うん」
受け取った少女は幸せそうに笑い、両手で大事そうにナツメヤシの一粒を包み込むと神への感謝の祈りを捧げた。青年の青い瞳を見つめながら口に運ぶ。
固くなった皮を白い歯で突き破ると、乾燥してねっとりとした甘い果肉に舌が触れる。気が遠くなりそうな、脳髄を蕩かす濃厚な甘み。楽園の味。
少女が一心に食べ始めたのを見て、少年はまだ青年に向けた警戒心を残しながらも、自分もナツメヤシの実をかじった。強い甘みは疲れ切った彼らの精神を鈍らせる。腹を減らした動物と同じだ。
少年の警戒心がすぐさま離れていくのを感じ、青年は彼らを驚かさないように静かに立ち上がった。足首まである長い衣服の裾が優雅に広がり、首にかけた首飾りがぶつかり合って澄んだ音を響かせる。
「食べたら、ついてきなさい」
なにはともあれ心が通じたことに安堵し、青年は置き去りにしてきた荷物に向かって歩き始めた。
水分を失って茶色く枯れ果てた草を踏みながら、青年の心は空にある。
成り行きとはいえ、数多くの危険を経ねばならぬこれからの長い旅路。ややもすれば足手まといになりそうな少年少女を連れ、試練の砂漠を越えることができるのか。
「愚問か。すべては神のお導きによる。私は神とともに己の信ずる道を行くだけのこと」
吐息三回分の逡巡の後、目を伏せて悲しげに笑った青年はそうつぶやいた。
背負い袋を拾い上げ埃を払って背中に負う。大きく湾曲した形の竪琴に取り付けたベルトを肩にかけると、くすんだ紅色の房がゆらゆらと一斉に揺れた。最後にわずかに湾曲した刀を佩く。杖を大地から抜き取っていると、小さな気配が背後でちょろちょろと動いている。
肩越しに振り返ると、少年と少女がすぐ後ろに立ち止まっている。表情に残ったかすかな不安に人間としての愛おしさを感じながら、向き直った青年は口元を引く。
「私は砂漠の向こうにある国へ行く。お前たちは何処へ向かうつもりなんだ? 場所によっては方角が異なってくるが……」
尋ねられた二人は、顔を付き合わせて小声で話し合っている。なにやらうなずき合ったかと思うと、少年がひょいっと顔を上げて早口で答えた。
「楽師さまと同じところまで」
「私と?」
意外な答えに、青年は軽く目を見張った。
「うん。楽師さまと一緒に行きたい。どこまででも構わないから」
今度は、青年の青い瞳をしかと見据えて、少年ははっきりと答えた。
「私たち、楽師さまと一緒にいたくて後をついてきたの。あの素晴らしい歌を教えて欲しくて」
続ける少女の瞳はキラキラと輝いている。
だが、その願いを耳にした青年は、白い頬にサッと翳りを過ぎらせた。
「歌……」
苦渋に満ちた単語が青年の口から絞り出される。
「残念だけど、私はもう歌は歌わぬのだよ」
自虐の笑みを浮かべ、青年は首を横に振った。隣にいた少年がキッと眉を釣り上げて少女の脇を肘で突っついた。
「莫迦! 今言わなくたっていいじゃないか!」
「だ、だって言わなくちゃ、楽師さまだって分からないじゃない?」
「あんなことがあったんだぞ。もうちょっと考えろよ」
「だって、だって……」
少女は目に涙を溜めながら、蒲公英色の髪を振って否定する。
「だってあれは、楽師さまのせいじゃないもんッ!」
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