メビウスの輪、というものがある。長い長方形の形をした帯の片方をひねって、そのままテープなんかで、端と端をくっつけると、それは簡単に出来上がる。
ひねらずにくっつければそれはただの輪っかだが、メビウスの輪は少し違う。
テープでくっつけた部分を始点として、そこから帯の真ん中に、ボールペンか何かで線を引き始めていく。この時、引き始めた面を表とする。
しばらく線を引っ張っていくと、線はいつの間にか帯の裏へと移動し、終点にたどり着く頃には、やがてまた表へと戻ってくるという不思議な現象が起こる。
帯をほどいてみると、紙の裏と表に、きっちりと線が引かれているというわけだ。
ただの輪っかでこれを行うと、こうはなりえない。表なら表、裏なら裏だけに線が引かれ、そのどちらもが、互いに交差することはないからだ。
「表があれば裏がある。光もあれば影もある。正義があるなら悪もある」
"彼女"は、笑いながらそう言った。
「悪と正義って一見対照的に見えんだろ?だが実はそうじゃねえ。こうしてな、お互い一本の線でつながった存在なんだよ」
表と裏、光と影、正義と悪。こいつらは二つで一組。片方の存在がなくなりゃあ、もう片方も消えちまう。裏も影も悪も、独立して存在することなんてできねえんだよ。だから、悪である私らが存在する限り、敵も永遠に尽きるこたあない。そこが厄介なところだ。
悪趣味なスーツを着た彼女は、昔私にそんな考えを教え込んだ。表と裏の存在意義を、メビウスの輪にたとえて。
今となってはそんな事、どうでもいいことだけれど。
私は自宅のソファーに寝転びながら、ふとそんな言葉を思い出していた。両手に、二種類の紙をもったまま。
ちなみに何を持っているのかというと、履歴書と、名刺だ。
片方は依頼者から渡されたものと、片方はあの変な男が渡してきたやつだ。
「ん」
名刺と、履歴書の情報を組み合わせてみる。
まずは履歴書。ターゲットは警視庁に努めている警察官。階級は警視正。名前は始音海人。
次にあの男に渡された名刺を、見落としのないようにチェックする。
『警視庁 捜査一課長(警視正)
始音 海人
東京都千代田区霞が関2-1-1 085-×××-××』
なんてことだ。ドンピシャではないか。職業、階級、名前。全てが合っている。
面白いことに名前の漢字までぴたりと一致しているものだから、笑ってしまいそうだ。
こんな、こんな奇跡があるのだろうか。
ターゲットを探すにあたって、こちらから探そうとしているその時に、向こうから近寄ってくることなんて。
あまりに出来すぎていて、すぐには信じられない。逆に疑いの目さえ向けてしまう。
もし向こうから意図的に近寄ってきたとしたら?私を捕まえようと、警察のほうでも動いているとしたら?
……というか、それ以外の可能性が考えられない。私に近づいてくる一般人なんて、まずいないから。
近寄ってくるのは、裏社会の人間か、あるいは依頼者か。今回は相手が警察官だったというだけの話だ。
でもそれにしたって、私が犯人だと警察に特定する余地はないはずだ。殺人現場の痕跡の隠滅なら、私は完璧にやってきたのだから。
どこかで何か小さなミスを犯してしまったのだろうか。彼らはきっと、それで私に目星をつけたのだろうか。
だが確かめられない以上、それは私の妄想の一部に過ぎない。もし、彼の接近がただの偶然だとしたら?
本当にただの厚意で、悩み多き私を心配して声をかけてきたのだとしたら?
そんな風にも考えられる以上、私の中ではその二つの可能性が出来上がる。
こういう場合は、いったいどうしたものか。
もしも意図的に近寄ってきたとするならば、これは罠だ。
もう接触しないほうが無難だろう。しばらくどこかに身を隠していたほうがいいかもしれない。
けれど、ただの偶然で近寄ってきたなら、これはまたとない千載一遇のチャンスへと変わる。こちらから彼に近寄って、適当に距離を縮め、最終的に殺す。それで今回の件は完遂だ。
けれど。
そもそもその前に、彼が本当に始音海人かという可能性を考えてみよう。
私がコーヒーショップで出会ったあの男は、本当に始音海人か?もしかしたら、全くの別人かもしれない。適当にナンパしにきた、ただのチャラい一般人かもしれない。名刺は偶然拾っただけのものを渡して、私をからかっただけかもしれない。
その可能性も否めない以上、私はあの男が本当にターゲットかどうかを断定することができないのだ。せめて写真があれば、迷いなくターゲットと断定できたかもしれないのに。
―――。
あのチャラい男と出会ってから、4日後。
依頼者には一応臨時報告しておいた。名刺と一緒に差し出すと、男は目を細めた。
今回のような事例は今までにないので、一応依頼主にも意見を仰ぐ。私の独断では事は決められない。
人に聞くのだったら、サンタの奴に言ってもいいのかもしれないが、どうせ何も教えてくれやしない。
世の中は弱肉強食。外の世界は非情なり。そこで誰かに頼ったり、一人で生きていけないようでありゃあ、お前はその程度の力量だってことだ。とかなんとかはぐらかして。
「罠かもしれないな。ふむ、どうするか」
依頼主の男は、困ったように腕組みをする。
「何か考えがおありですか?」
「いや、なにも。どうするかは君の判断に任せよう」
「わかりました。参考に貴殿の意見を仰ごうと思ったのですが、何もなければ全て独断で事を進めさせていただきます」
「あぁ、そうしてくれ」
男は、スーツの胸ポケットから煙草を取り出して火をつける。
「ちなみに、その男と接触したのはその時だけか?」
「いえ、2日前にももう一度接触しました。同じ場所、同じ時間帯で。また向こうから近寄ってきて」
「なに?」
そう。実は。依頼主にこうして臨時報告する前に、私はもう一度あの男と会っているのだ。
またもやあの男に接近された。会話は相も変わらず他愛ないことだったが、そんなのは重要じゃない。
二回も接近されてしまったということ。相手が、意図をもって接近してきているというのなら、こうして接近されるのはよろしくない。というか、ヤバいレベルだ。
いつ捕まるかもわからない。しかし今のところ私を捕まえないのは、私が数々の暗殺事件の犯人だという確証がないからなのだろう。だからこうやって泳がせて、私から何かボロがでないかどうか見張っているんじゃないかと思う。
だけどそれでも、彼の行動が偶然である可能性も捨てきれない。だから余計にタチが悪い。
そして、彼が本当の始音海人なのかわからないという問題もまだ解決していない。
私の偶然理論と必然理論は、彼が本物の始音海人だと決定づけたうえで立脚している。探偵でも警察官でもないのに、必然的に私をマークしているとしたら、それはただのストーカーか何かだ。
「その男に、何か怪しい点はなかったか?」
「いえ、特に何も。特に深く情報を聞き出すことはしてこなかったですし、むしろ男一人が勝手に綺麗事を並べているような感じです」
「そうか」
「ただ……」
私がそこで口ごもったのを見て、彼はさらに目を細めた。
「ただ、なんだ?」
「あることに誘われてしまいまして」
「あること?」
「はい」
―――。
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