僕は、知らない土地を歩いていた。初めて来た場所。もちろん、その景色に
見覚えなんてあるわけがない。それでも、僕の足は迷うことなくひとつの道
を真っ直ぐに進んでいた。その足取りは軽く、一歩一歩をしっかりと踏みし
めていく。そうやって少しずつ進む度に、いつかの感覚が蘇るような、そん
な気がした。同時に、どこか期待するような、それでいてどこか不安が募る
ような気持ちになった。言葉で説明するのは難しい。だけど、波の音が近づ
くにつれ、そのモヤモヤとした感覚は一層強くなっていった。
ああ、これは・・・蘇っているのではない。僕は、最初から覚えていたんだ。
そう確信したのは、ようやく足が止まり、目の前に銀色の花を咲かせた大き
な木が現れた時だった。広大な海を背景に、波の音を聞きながら、僕はその
木を見上げた。今まで何度も、そうしてきたように。その度に、木は銀色の
花弁を輝かせ、風に揺られながら僕を迎えてくれた。
だけど、今日は違った。その場所は、今までにないほど静まり返っていた。
銀色の花弁を躍らせていた風は、風通しのよくなった枝の隙間を、音もなく
すり抜けていく。キラキラ、と聞こえてきそうなほどのあの輝きが見えない。
今、目の前にある木は、僕の記憶にある木よりも、確実に小さくなっていた。
たくさんの満開の花を、余すところなく枝中に開かせていたはずのその木は、
すっかりその花を散らしてしまったのか、細く痩せているように見えた。
枝にあるのは、ほんの僅かな花弁のみ。
それらは相変わらずひとりでにキラキラと輝いてはいたが、以前の様な美しさ
はすっかり失われていた。一体どうしてこんなことになってしまったのか。
だって、この木は、どんな季節でも、どんな天気でも、決して枯れることなく
咲き続けていたではないか。もしかして、もう何度目かの今の僕は、ついに
この木が寿命を迎える時代に生まれてきてしまったのか。こうして、あなたの
ことを忘れずにいられたというのに。
すっかり不安に覆われてしまった気持ちのまま、僕は木に近寄った。先程とは
違い、足取りは重たい。いつかのように手を伸ばせば、すぐに木に触れること
ができた。だけど、見上げても以前のような花に包まれる感覚はない。枝の
隙間から、銀色ではない、青い空が顔を覗かせていた。それは綺麗なはずなの
に、今はただ複雑な感情しか抱くことができなかった。視界の端に、辛うじて
といった風に枝に咲く銀色の花が映る。その花を見た、瞬間。
「置いていかないで」
いつだったか、銀色の花弁に包まれながら聞いた声が、頭の中に響いた。
それが今聞いたものなのか、それとも過去の記憶のものなのかはわからない。
ただ、まるで泣いているように花弁を散らせた、あの時の光景を思い出して、
僕は気付いた。この木が、どうしてこんなに細くなってしまったのかを。
ずっと、泣いていたんだろう。叶うことのない願いに、置いていかれる度、
ああやって泣くように、枯れることはなく、ただ花弁を散らして。
そうやって、やっぱり僕は、僕たちは、あなたを何度も悲しませてきた。
誰もが消え逝き、悲しませ続け、その度にあなたは泣いて、花弁を散らせ、
そして・・・
枯れることなく見届けた。置いていかれることを知りながら、見届け続けた。
だけど、悲しみに泣く度、枯れることなく終わりに近づいていた。
その姿は、まるで・・・
「・・・まるで、桜だ・・・・銀色の桜・・・」
冷たい木肌に手を滑らせながら、僕はそう呟いた。
風が吹くと、ほんの僅かに花が揺らぐ。その度にキラキラと輝く。
あぁ、やっぱり綺麗だ。無機質なんかじゃない。
置いていかないでと縋ったあなたは、悲しくて泣いたあなたは、全てを見届け
てくれたあなたは、僕たちと何も変わらない。そして、今も、
「私を、置いていかないで」
僕の耳に届いた声は、あの時と同じように悲しくも綺麗なものだった。
何度生まれ変わったって、僕はあなたの願いを叶えられない。きっと僕は、
再びあなたを悲しませるんだろう。
そうして、同じようにあなたが泣くのなら。
口を開きかけたところで、強い風が吹いた。
どこからか湧き上がるように、僕の足元がキラキラと光り輝く。それは、
散ったはずの花弁達だった。花弁達は風に煽られ舞い上がり、まるでいつかの
ように僕を包んでいく。そして上を見上げれば、枝に咲いていた僅かな花弁達
も、一緒に空に舞い上がっていくのが見えた。
「あの時と、少し似てるね」
いつかの光景と、今見ている光景が重なって見えた。ただ謝ることしかでき
なかった、あの日。だけど、今日は違う。
今度は、僕が見届ける番だ。
今まで、ひとりきりで全てを見届けてくれたあなたを、笑顔で見送ろうと
思った。だけど、頬を伝う感触を無視することはできなかった。
泣きながら笑う、なんて、僕は今、どんな酷い顔をしているんだろう。
強い風は容赦なく花弁をさらっていく。
空に放たれた銀色は、青色と混ざってより一層その輝きを増した。
その輝きに触れたくて思わず手を伸ばしてみたけど、花弁は既に海の上。
もう、届かない。
それは、その木の終わりを示していた。
待って、まだ言わなきゃいけないことがあるんだ。ずっとひとりで、この場所
で、たくさんの景色を、たくさんの人を、たくさんの終わりを見届けて、それ
らが確かに存在していたことを証明するかのように今まで咲いていてくれてた。
そんなあなたに、最後に伝えたいことがあるんだ。
あの時、「私が咲き続ける限り、あなたを忘れない」と。
そう言ってくれたあなたに。
「覚えててくれて、ありがとう」
花弁が見えなくなる前に放った言葉は、どこからか響いた綺麗な声と重なって
聞こえた。海の上で、銀色の輝きがだんだんと小さくなっていくのが見える。
じっとその輝きから目をそらさずにいると、重なって聞こえた言葉の意味は
すぐに理解できた。
私がここに咲いていたことを、覚えててくれてありがとう。
その声もまた、泣きながら笑って言っているように聞こえた。
銀色の輝きは、ついに空へと消え、波の音が残るばかりだった。
視線をずらせば、花のなくなった木だけが、そこにあって。生気は感じられ
ない。きっと、銀色の花と共に、あなたは本当に消えてしまったんだろう。
置いていかれるのは、こんなにも悲しいことなんだね。
木を撫でながら、僕はただ泣いていた。あなたも、こんな気持ちでいてくれた
んだろうか。それでいて、僕たちのことをずっと覚えていてくれてたんだろう
か。・・・ならば、今度は僕の番だ。
「次は・・・僕が、あなたを忘れない」
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