「あっち?」
「そ、あっち」
彼がそう言って指さしたのは、奥の雑木林だった。別に断る理由もなかったので、うんとうなずく。
本当は、私が彼のことを雑木林へと誘い出し、人目につかない真っ暗な林の中で、殺す予定だった。
周りを緑で囲まれたその場所は、夜になると全く人が通らなくなる。
都市部からもちょっと離れた場所にあったから、人目はもともと多くない。
「よいしょっと、んじゃ行くか。」
彼はすっと立ち上がる。私も立ち上がって、シートを再びポシェットの中にしまった。
「ちょっと歩くからな」
そういって、彼はスタスタと歩いて雑木林のほうへ歩いていく。私も、彼の後を歩いた。
ポシェットの中には、シートのほかに、リボルバーと彼を眠らせるクロロホルムが入っている。
だが、それを取り出す心の準備が、まだ、できないでいた。
殺さなければいけないのに、それができない。殺し屋として一生の恥だ。
「なんか、このあたりって、大自然って感じだよな」
感傷に入る私とは対照的に、彼は浮かれながら言う。
さっきの重い空気を断ち切るように、いつもより陽気になっていた。
「子供のころはさぁ、よくここで遊んだような気もするなぁ。このあたりから見える星が、すげぇ綺麗でさ」
海人はふっと振り返る。とても無邪気な笑みだった。
私は愛想笑いを返すこともできず、先導する海人の後ろを歩く。
当然ながら、林の中だから周りは暗い。足元すらよく見えない。月の光と星の光だけが道しるべ。
目の前の林道を、ひたすら私たちは歩いていく。
五分くらい歩いただろうか、彼はふと、道の途中で立ち止まった。
「こっち行くよ」
「え、こっち行くの?」
一直線の道から外れた方向を、彼は指さした。こちらには、整備された林道はない。
少し歩きにくそうな場所だ。
「大丈夫、すぐそこだから。こっちにさ、大きな桜の木があるんだ」
「桜の木が?」
「そ、でっかいんだぜ。俺にとっては、ちょっとした思い出の場所だからさ、ちょっと寄りたくなっちまった。今もまだ残ってるかなぁ」
足元に注意してな、と言って、彼は雑草を踏み分けて入っていく。ためらいもなくずかずかと入っていくので、うかうかしていると彼においてかれそうだった。
だから私も、後を必死に追った。
歩くこと数分。道なき道をくぐり抜け、私と彼はたどり着く。そこに、大きな桜の木がぽつんと立っていた。
周りの木を遠ざけるように、木は立っている。だから、桜の木だけ少し浮いているように見えた。
言い方を変えれば、それほど存在感がある、ということになるけれど。
「おー、しばらく見ないうちに大きくなったなぁ。元気だったかー?」
海人は笑いながら、その木に歩み寄っていく。
まるで孫を出迎える祖父母のようなセリフだ。それがなんだかおかしくて、不意に私は笑ってしまった。
「なんだよ、笑うなよ」
「だって、今の言い方、孫に久々に会ったおじいちゃんみたいだったから」
そう言うと海人は、
「……あー、孫か。確かにそれっぽいかもな」
といって、笑った。
「実際は逆だな。俺にとっちゃ、親みたいなもんだよ」
「親?」
「そ。小学生のころから親がいなかったからさ、俺。だから、この木を親の代わりにしてたんだ。子供のころは、ほぼ毎日ここ来てさ、友達と遊んだりしてた。木に登ったり、木陰で飯食ったり。急に雨が降ってくると、ここで雨宿りしたり。こいつにはだいぶ世話になった」
海人は、ぽんぽんと、手の平で桜の木の幹をたたく。
「なんだかんだ言っても、幸せなもんだったよ」
彼の顔がほころぶ。多分、相当思い入れがあるのだろう。
私が彼のような人生だったら、嫌気がさして、性格がねじ曲がってしまうかもしれない。
きっと学校だって不登校になる。そんな人生なら、人殺しになってしまうかもしれない。
実際、海人だって、父親殺しの計画を立てていた。
でも結果的には、彼はそんな人生を受け入れたんだ。悪人を更生させるという目標も作り上げた。
厳しい困難や逆境を乗り越えて、彼がそんな風に生きれるのだったら……。
もしかしたら、私も――
「普通の人らしく、生きられるのかな……」
「ん?」
「………………はっ!」
思わず声に出てしまっていた。気づいた時には遅く、海人に聞かれてしまった後だった。
「どしたの?」
「いや、別に」
思いっきり声に出しておいて、はぐらかす。なんだか自分でも白々しい。
「えー、教えろよー。隠し事、ダメ、ゼッタイ」
「大したことじゃないから」
「ホントに?」
「うん」
少しうつむく私に対して、顔を覗き込んでくる彼。目が合った。
心の奥底までを見透かしていそうな彼の目。さすが警官といったところか。
そんな目で見つめられたら、私の過去が全てばれてしまいそうで怖い。
だから、視線は合わせないように目をそらし続ける。
「ホントにホント?」
「ホントにホントだってば」
「じゃあ、なんでそんな悲しそうな顔をするんだよ」
「っ……」
声だけじゃなくて、顔にも出ていたのか……。
私は物事を隠すのが下手なんだろうか。……いや、そんなことはないはずなのに。
仮にも殺し屋だ。人を殺すのに、いちいち感情を表に出してしまったら、やっていられない。
感情を押し殺すのには、もうだいぶ慣れたつもりだったのに。
駄目だな、私は。何もかも。
「よければ教えてくれよ。なにか、嫌なことでもあったのか?」
「まぁ……ね」
これ以上押し問答していても仕方ない。
観念して、私は彼に一部だけ、自分の境遇を話した。自分が殺し屋であるということと、ターゲットとして海人を狙っていることはもちろん話さなかったけど。
彼は私が話し終わるまで、口をはさむことなく、黙って話を聞いていた。
やがて話し終わると、海人が口を開く。
「そんな風に生きてきたなんて……グミちゃんもハードな人生を生きてるじゃんか」
「海人には言われたくない」
「俺のほうがやばいってか?いや、グミちゃんのほうが絶対ヤバい」
断言する海人。
「てか、なんだよ。グミちゃんは閉じ込められて、毎日毎日勉強勉強勉強、だろ?おまけに外には出してもらえない。最悪だな」
「……そうだね」
まぁ嘘は言っていない。その勉強内容は人には言えないようなことだけども。
「おまけに言うこと聞かないと殴られるって、どんだけスパルタなんだよ!頭どうかしてんじゃねえか」
私の話を聞いて、彼は怒っていた。普段へらへらしている分、そのギャップは大きく思わず驚いてしまう。
「大人になってからあの人の干渉は減ったけど……それでも、月1、2回は定例報告をしないといけないの」
「仕事の?」
「そう。しなかったり成績が悪いと、また殴られる」
「……そんなの、おかしいじゃねえか。そんなことで殴るって、なんだよ。意味分かんねえよ」
報告を忘れたり遅れたりすると、必ずペナルティがある。別に報告に限ったことではない。
昔はもっとひどかった。成果を出せなかったら即ペナルティだ。
ちょっとでもあの人の機嫌を損ねたり、ごねようものなら何が飛んでくるかわからない。
道理が通じない世界というのはこういうことだ。
「まぁ、そんなとこかな。私の人生は。あーあー、さっさと死んで天国行きたいな」
「……そんなこと、簡単に言うんじゃない」
軽いつもりで、言ったつもりだった。とりあえず、私の話はこれ以上続けたくなかったから。
どうしても、重い話になってしまうから。だから、話題を変えるつもりだった。
海人も、適当に流してくれると思ったのだが、想像以上に、彼の表情は重かった。
「人生がどれだけ苦しくっても、グミちゃんが死んだら、悲しむ人だっているんだから」
「死んだら悲しんでくれる人?……いないよ、そんなの。友達だって家族だって、私にはいなくて――」
「俺がいるだろ!」
「っ……!」
海人は、そう言って私の体を抱きしめた。あまりに突然だったので、息ものめず、声も出せずにそのまま硬直してしまう。
「俺が悲しむ。だから早く死にたいだなんて、辛いこと言わないでくれ。そんな悲しそうな顔しないでくれ。そんな風に、自分自身を捨てるみたいにいうのはやめてくれよ……!」
「……」
私は何もできないまま、されるがままに黙っていた。
でも辛うじて、思い浮かんだ疑問を海人にぶつける。
「なんで、なんでそんなに私のこと、想ってくれるの?自分のことみたいに、考えられるの?」
「っ……そんなの」
彼は、静かにそう呟き、やがて次の言葉を紡ぐ。
「そんなの、グミのことが好きだからに決まってるだろ!!」
彼は、さらに両腕に力を込める。その両腕が、少し痛かった。
「好きだよ。だから、もうそんなことを言うのはやめろ」
「……」
「俺がグミのそばにいる。ずっとずっと隣にいる!愚痴だってなんだって聞く!だから、もうそんなこと言うなよ……?ずっと、そばにいてくれよ」
「……そばに?」
「そうさ。ずっとずっとそばに。その……、結婚だって真剣に考えてる」
結婚。
そこまで考えていたんだ。一生、私のそばに寄り添って生きていくことを、真剣に思っていたんだ、この人は。
でも………、私は彼の期待には多分応えることができない。
「それは……できないよ。結婚なんて、私には」
「……え」
彼は拍子抜けしたように、あるいは驚いたように、表情を曇らせる。
「どうして?もしかして……嫌か?」
「……ううん、そういうことじゃなくて……、海人はいい人だとは思う。好きか嫌いかで言ったら、多分好きのほうに入るんだと思う」
「なら――」
「でも、できないの、私は。それに結婚なんて私には幸せすぎて」
「どうしてさ。幸せになっちゃいけないのかよ」
「……そう。私は幸せになっちゃいけない。……海人、ちょっと、放してもらってもいい?」
少し戸惑ったようだったが、海人は抱きとめていた私の体を放す。私は、彼の目を見ないように、背中を向けた。
背を向けたまま、そのまま言葉をつづける。
「海人、今からすっごく変なこと言うけど……信じられないかもしれないけど、黙って聞いて」
「……あぁ」
「ホントに信じられないかもしれないんだけど……」
前置いて、私は語りだす。ホントなら、言ってはいけないことだけど。最初は言うつもりもなかった。
でも、もういい。一部だけだけど、私の身の上すら、もう話してしまったのだから。
それにこの事実を言ってしまえば、彼は私のことを訝るだろう。そして、彼の「好き」という気持ちに水を差すことができる。
だからこれは、彼と決別するいい機会なのかもしれない。私はもう、これ以上甘い気持ちに浸ってはいられないのだ。
「海人、私には―――」
ゆっくりと口を開き、やがてその言葉を口にする。
……賽は投げられた。
これを言ってしまったら最後、もう後戻りなんてできない。
「……え?」
私は背中を向けていたから、彼がどんな表情をしたかわからないけれど、多分驚いたんだろう。驚く前に、唖然とするのが自然だろうか。
この事実を聞いて、平常心でいられる人間がいるほうが、奇跡だ。
「海人、私には……、戸籍が、ないの」
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