「藍河博士」
 
名前を呼ばれた短髪の青年は、パソコンのディスプレイから目を離し、
声の方を振り向いた。

「…渫華(せつか)どうしたんだ…今日は外出日だっただろう」

藍河のみが呼ぶ名。

それは、彼女にとっての、本当の名前である。

科学者達は彼女を機械としてみるが、藍河は違う。

彼は彼女を人間として扱いたいと思っているのだ。

彼女には、心があるのだから。

渫華には本当の事を言わずに、彼女の行動を知らないふりをする。

彼女はそんな彼の考えに気付いたのか気付いていないのか、
全く分からない無表情のまま、ぽつり、と呟いた。

「…蝉、死ぬの嫌がってるから…。治してあげられますか?」

両手にそっと包まれた蝉は、もう足を動かす力さえ無いらしく、
時々微かに足がピクリ、と動く程度だった。

「……渫華、それはしてはいけないことだよ。それに……」

そう言って藍河が眉を顰め蝉を見つめる。

渫華もそれに促されるようにして見ると、蝉はもう息を引き取っていた。

「………蝉。これもアブラゼミ」

動かなくなった蝉を見つめ、確かめるように指先で触れる。

「そうだよ。もう細胞は死んでしまうけど」


「…死んだの」

蝉に語りかけるように首を傾げる。

彼女の眉は顰められ、その瞳には何かの感情が映っているように見えた。

それを知ろうと観察する藍河の視線に気がついたのか、
彼女は藍河を見つめる。

「……捨ててきます」

 踵を返した彼女の腕を取ると、驚いた様子も無くこちらを振り向いた。

大きな瞳には涙が溢れだし、その瞳を濡らしていた。

「どうかしましたか?」

「…死んだ生物は、地に返る。だから、少しでも悲しいと思うなら…埋めてあ げよう」

ぱっちりと開いた瞳が、何度か瞬きをして藍河を見つめた。

その間にも頬を伝い、灰色の床に落ちた。

彼女は少し戸惑ったように首を傾げる。


「…私は悲しんでいるのですか」


藍河は驚いたように眉を吊り上げ、そして、
眉間に皺を寄せて、彼女を愛しむかのように、柔らかな笑みを浮かべた。

「人は、悲しい時に涙を流す。…これが証拠だよ」

彼女の温かな頬に触れ、伝う涙を拭い、彼女に見せてやる。

彼女はその少し温かい水に驚き、指先で触れ、初めての涙に眉を寄せた。


「藍川博士。死とは悲しみですか。悲しみとは嫌なものですか」

今も細胞が死んでいっているのだろう蝉を見つめ、涙の通る筋を増やした。


初めて触れた死。

そして、初めて覚えた感情、『悲しみ』の大きさに耐えかねたように、
膝を折り、座り込んで肩を揺らした。

それでも彼女は、白い手の中にいる蝉を気遣うような仕草を見せた。

その様子を見て更に眉を寄せる。

「……死は確かに悲しいものだよ。でも、それがあるからこそ、今を、命を大 事に出来るのだろうと思う。悲しみは……確かに嫌なものかもしれないな。 それでも、きっと君は悲しみの中に愛を見 出すことが出来るようになる」

嗚咽を飲みながら、彼女は声を絞る。

「…あ、い?…愛情…ですか?」

彼女の表情は苦しげで、まるで誰かに救いを求めるように、
その濡れた瞳は揺れていた。

「そうだ。…初めての感情が悲しみなのは、辛いことかもしれない。だけど、 それは生きていくうえで人間が最も感じる感情だ」

「…なら…それなら…っ。……生きて…いくことは…辛くは無いのですか…」

 彼女は、人間が生きていくうえで一度は考えるであろうことを口にした。

声を震わせ、まるで何かを訴えるかのような表情は、確かに、
人間の表情であった。

彼女の瞳は痛いほどに真っ直ぐで、生まれたばかりの子どもなのだと再認識させられる。


「…辛いことかもしれない。それでも、幸せなことはたくさんある。人間は幸 せを手に入れるために生きている。人によって、その幸せの形は違うだろう けれど。…君には……そうだな。五つの約束をしてもらいたい」


「やくそく…?」


困惑した表情を見せる彼女の頭を撫で、そっと肩を抱き寄せる。

彼女の体は小さく、嗚咽を呑む度に小刻みに震え、そして温かかった。


「そうだ。まず一つ目。確かに生きていくことは辛いことも多い。…だからこ そ、君には笑っていて欲しい。それを約束してくれないか。他の四つは…そ の約束が守れたらにしよう」


頬に手をやり、濡れた瞳を覗き込む。

藍河の言葉を聞いて、彼女は一度小さく口を開いて、迷ったように閉じた。

藍河がそれを促すと、彼女は指先で涙を拭い、未だ濡れた瞳で言葉を発する。


「私が笑っていたら…藍河博士は幸せですか」


その言葉を聞いて、一瞬彼女が何を考えているのか理解出来ず、
返事に詰まる。

――私に幸せであってほしいと思っているのか。


目を離さない彼女に、勿論だと小さく笑った。

「…じゃあ、じゃあ…私は笑っていますね。藍河博士が笑えるように」
 
そう言って、寄せていた眉はそのままで、一度瞳を閉じて涙を全て拭い去り、
穏やかに笑った。

あまりにも自然な笑みに、一瞬ドキリ、と心臓が大きく跳ねるのが、
はっきりと分かった。


――彼女にはきっと、人を愛する心が…慈しむ心がある。


 一匹の蝉の死に涙を流し、人への気遣いも持っている。

それを当たり前のように感じて、彼女はプログラムされた言葉ではなく、
感情によって言葉を発している。

 
彼女には心がある。


彼女はもう立派な『人間』なのだ。




   誰にも『機械』なんて言わせない。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります

5つの約束。1ツ目*笑うこと*-2-

一話目終わりです。
なんだか時間かけなかったせいか非常に言葉が^p^

アドバイスや意見等々お待ちしております!!
アドバイスいただけましたら
せっかくですし直したいと思います。
よろしくおねがいします><

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閲覧数:203

投稿日:2009/08/05 23:08:50

文字数:2,314文字

カテゴリ:小説

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  • sugayama

    sugayama

    ご意見・ご感想

    まず
    生きていてもアブラゼミ
    死んでいてもアブラゼミ
    という意味深いフレーズに何と言うか、予想外で良い意味で驚きました
    (正直、私の悪い癖で、ネットの読みものは表面だけなぞっていれば平気、というのがあり。。。自省しなければです)
    ただ、やはり文中見落としそうになったので、もう少し強調しても良いかなと思いました。

    その後の人間的な感情を見せたのにもかかわらず、
    すぐ後で「捨ててきます」という無機質な言葉も際立っていると思います
    というか、その後の展開良いですね♪

    あえて言うのなら、そこから次の
    「藍川博士。死とは悲しみですか。悲しみとは嫌なものですか」
    まで少し展開が早く、特に直前もう少し丁寧に描写をしてもよいかなと思いました
    まぁ、失礼かもしれませんが、ありがちな?設定だけにぐだぐだと続けてしまうと嫌がる読者の方もいるかもしれませんが。でも愛と、生きること、幸せ、と他の話題にも触れるのならこのままが良いのかもしれません。どっちつかずですみません。あるいはテーマが多過ぎるのかもです。

    同じことになってしまい、どう言えば良いのかわかりませんが、
    死→悲しみ の繋ぎ部分は丁寧なのに
    悲しみ(涙)→死(上記会話部)への繋ぎが雑に感じました。
    きむいちさんの仰るように、背景描写で奥行きを持たせるのもよいかもしれません。
    全体的に背景描写が少ないようにも思えましたし。

    >「零れ落ちる涙」は自然な表現だと思いますよ??

    あとは、藍河博士の設定がまだしっかりしていないので、彼の行動全て、物語が進むにつれ、特に後半が安易なものに感じ、悪い言い方をすればなぁなぁになっている気がして、必然性を感じませんでした。
    具体的にどうすれば、とは書けませんが、私が試みるとすれば、今回は死の話題だけにするとか、先に蝉の埋葬シーンを入れ、そこでもう少し藍河の設定を詰め、他の話題に発展させるなどでしょうか。ただ構成を変えなくてはいけないので、ホントに聞き流して下さい汗汗

    (メッセージありがとうございました、失礼だなんて、私の方がこんな素敵な作品に自由にいちゃもんをつけさせて頂いて、失礼、というものです、、私が提案したものについては取り入れ頂いても大丈夫です♪ただ、ほんとにいい加減に書いているので、何と言うか逆に完成度を下げてしまっても責任は持てませんがww)

    2009/08/07 04:55:51

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