5.
八年前、僕の衣装合わせのときの初音さんと高松社長の言葉が、ラストライブが終わるまでずっとしこりみたいに僕の心の奥底にあった。
あのとき以降、初音さんがその話を蒸し返したことなんて一度もなかった。社長も、CryptoDIVAの三人も同様だ。
そして、僕が初音さんに聞くことができたはずもない。
CryptoDIVAというグループは、その十三年に及ぶ活動期間に、スキャンダルらしいスキャンダルは一度もなかった。
社長の指示だったり、僕らスタッフの送迎があったからとも言えるけれど、なにより、彼女たち自身の自戒によるところが大きい。
彼女たちは成人を過ぎても外では絶対に飲酒をしなかったし、遅くまで遊ぶなんてこともなかった。
結成時、高松社長は「プライベートまで面倒を見るつもりはねー。けどな、アイドルである以上は恋愛をするならそれ相応の覚悟をしろ。ダメだと思ったら、オレはCryptoDIVAを解散させる。冗談は言わねえ。本気だ」と言ったそうだ。彼女たちはその言葉に誠実に答えてみせたということなのだろう。
◇◇◇◇
ラストライブの終わった後。
私服に着替え、あとは帰るだけとなった初音さんは、真っ暗になったステージの端に座って感慨にふけっていた。
彼女が着ているのはスキニージーンズに黒のパーカーで、量販店で適当に選んだ服だ……ということを僕は知っている。なんだかんだ似合っている服装なのだが、当然ながらアイドルのときとは全く印象が違う。
プライベートでは目立たないように意図したものであると同時に、ステージ衣装以外には無頓着な初音さんだからこその格好とも言える。
今日のスケジュールが全て完了したのに、一人所在の分からない初音さんを探していた僕は、明日の解体を待つだけとなったステージで、黄昏れている彼女の姿を見つけたところだった。
東京ドームの三塁側から中央の仮設ステージへと歩いてきた僕に、初音さんは当然気づいていた。
歩いてくる僕に目を留めた初音さんは、僕が声が届く距離まで待ってから、肩をすくめて苦笑した。
「あーあ。終わっちゃった」
「後悔してる?」
グラウンドから彼女へと問いかける僕に、初音さんは苦笑したまま首を横に振る。
「ううん。後悔してるわけじゃ……。ただ、まだボクができることもあるんじゃないかって……ああ、それが後悔してるってことか」
「そんな風に思うだろうって、わかってたんじゃないの?」
「うん。そりゃね。ボクたちの限界がわかってからも、それ以上の高みをずっと目指してたんだ。届かなかった高みを思うとさ、そりゃ後悔もするよ。同時に……ある程度の納得もしてるんだけどさ」
「やるだけのことをやり切ったって?」
「そう。執事長は……奏はなんでもお見通しだね」
「そりゃあ……僕も、初音さんの気持ちは理解してるつもりだよ」
「……肝心なことは気づいてくれないくせにね」
初音さんがうつむいてなにかを言っていたけれど、僕には聞こえなかった。
「……? なに?」
「ううん。なんにも」
「?」
なにかはわからないけれど、初音さんは答える気がないらしい。
僕は肩をすくめる。
「もう帰らないと」
「奏が送ってくれるんでしょ? 他に待たせてる人がいるわけじゃないんだし、それなら平気でしょ」
「いや僕は明日のステージ解体にも立ち会うから、なるべく早めに帰りたいんだけど」
「もー。ボクも感慨にふけりたい気分なんだから。一生に一度のタイミングなんだし、これくらい許してよ」
僕も本気で嫌がったわけではないし、初音さんもそれがわかっててそう言っている。僕と初音さんの間だからこそできるやり取りだった。僕以外の人で、完璧主義でストイックな初音さんの意見に反論できるのは同じCryptoDIVAのメンバーだけだ。社長でさえ反論しない。……社長の場合は「ミクに言ったってよ、聞きゃしねーからムダだ」と言っていたから、ちょっと意味が違うけれど。
僕もステージにあがって、初音さんの隣で人ひとり分くらいの距離をあけて座る。
「えーがーいた、りそーうに……手をーのーばーしたのー……」
初音さんは「Prhythmatic」の歌詞をゆっくりと歌いながら、歌詞の通りに頭上に手を伸ばす。
曲のタイトルは、光の分光器としての「Prism」と、音楽の拍子としての「Rhythm」をかけ合わせた名前なのだという。
「……。理想は、叶った?」
僕の問いに、初音さんはドームの天井を見上げたまま苦笑する。
「アイドルになる前の、あの頃の理想は叶ったよ。でも……はは。ボクはわがままだからさ。理想はどんどん高くなっていっちゃうんだ。叶えられない願いも欲しがっちゃう」
「上を目指すことは悪いことじゃないんじゃないの?」
「そうだけどさ。高すぎる目標のせいで潰れちゃうのはよくないよ。ボク自身にも、これからアイドルを目指す子たちにとっても。当然、ファンの人たちにとってもね。だから、辞めるなら頂点にいるときじゃないとって思ってたんだ。ズルズルと引きずるくらいなら、スッパリ辞めたほうがいい」
「うん」
初音さんの言葉に同意する。
アイドルは過酷な職業だ。二十代後半になると「劣化」などと揶揄し始める人々がどうしても現れてくる。
「でもーー」
「ーーそう。そのためには、辞めたあとのセカンドキャリアがしっかりあるんだって証明しないといけない。ボクは、それも証明したい。ボクだけじゃなくて、ボクのあとに続く子たちの希望にもなれたらいい」
伸ばした手を握りしめる。
「そうしたら、輝けるもの全てに光を灯せることになるかなって」
「初音さんになら、きっとできるよ」
というか、彼女になら簡単にやり遂げてしまいそうだ。
「けど、これまでみたいに常に全速力で走り続ける必要はないと思うよ。たまには、休憩がてらもう少しゆっくりした速度で歩いたってさ。僕は、それでもいいって思うよ」
「あはは……そんな風に見えてた?」
初音さんは笑ってそう言うけど、その表情はどっちかって言ったら隠し事がバレたって感じの顔だ。
僕は苦笑してうなずく。
「アイドルとしてやれる残り時間と、自分が成し遂げたいことの折り合いがついてなかったんだろうなって。そんな焦りがあったから、珍しくライブ前にあんなにピリピリしてたんでしょ」
「うん……そうだね。奏が『リラックスしないと。そんなんじゃ、ファンに対して一生後悔するよ』って言ってくれたから、本番直前で力が抜けたんだと思う。奏がいてくれてよかったよ。他の人はそこまで言ってくれない」
「初音さんが完璧主義すぎるから……」
「だって、ファンのみんなには完璧なものを提供したいんだもん」
「社長は『ライブはアクシデントあってこそ』とも言ってたよ。少なくとも、統括となってからはその完璧主義を後輩に押し付けちゃダメだからね。完璧主義が許されてたのは自分が主役だったからだよ」
本人には酷なことかもしれないけれど、そこは釘を刺しておかないといけない気がした。
「でも……」
「初音さん。人ってさ、自分と同じようには動けないんだよ。自分ができるんだから他人も当然できるんだって思ってたら、絶対に失敗する。アイドル部門統括になるなら、後輩ができないことに対しても許容できるようにならなきゃ」
「うーん、そっか……」
初音さんはこれまで最前線にいて、初音さんが最高のパフォーマンスを望む相手もまたーーメイコさん、ルカさん、リンさんだけでなく、バックダンサーやバックコーラスといったパフォーマーたちーー最高峰のプロたちだった。だからこそ、初音さんの要求にも難なく応えられる人たちだったのだ。
一方、僕はステージマネージャー……裏方の責任者として結構色んな人に指示をした。その上で、僕は明言できる。初音さんの望む完璧さを実現できる人というのは、一部の限られた才能を持つ人だけだ。
しかし、彼女はそれが当たり前だと思っていて……そうできない人がいるということをまだ知らない。
「じゃ、言い過ぎないように気をつけないとね」
初音さんはそう言って肩をすくめる。
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