十月三日 翌朝ビジネスホテルを十時丁度にチェックアウトし、その足で昨夜立寄った郵便局で加奈子からの入金の内五万円を引出し財布に入れた。残金の中から五万円を家賃として蒲田の事務所の大家に送金した。京都駅に着いたのは十一時前だった。北陸本線の特急雷鳥で敦賀迄行く事にして駅ビルでBLTとアメリカン珈琲のブランチを取った。京都を出発したのは十一時四十分だった。十二時半には敦賀に着いた。敦賀のホームに降り立つと東側に急峻な紅葉の山が迫っていた。日本海からの冷風に軽く身震いした。駅前の鄙びた案内所で法蔵寺の所在を確認した。駅前から延びる商店街を通って北国街道に出た。街道に出ると北上し街道沿いの閉店した商家を右に見て暗い雰囲気の道を気比神宮の方角に向かって歩き続けた。ハンチングに黒いインバネスコートの下はタートルネックといういでたちの土岐は駅から十五分ばかり歩いて、この辺から寺の境内で二千坪程あると観光案内所で聞いた事を呟いて復唱した。気比神宮前に出ると街道から左に折れ西に向かった。古色蒼然とした大きな山門に法蔵寺という額が掲げられていた。赤や黄色の枯葉の散乱した参道が五十メートル程続いていた。右手は路地裏道で左手は墓地になっていた。薄っすらと積もった落葉を踏み締めてショルダーバッグに手をかけて黙々と歩いた。境内を時折吹き抜ける敦賀湾からの寒風に背を丸めコートに両手を突込んで前のめりになっていた。駅から三十分近く歩いていた。本堂迄来ると右手に折れ、庫裡に続く細い砂利道を落葉を蹴散らす様に進んだ。庫裡の小さな硝子窓からけたたましいテレビの音声が漏れていた。土岐は庫裡の引戸を開けて土間に入り、「今日は。どなたかおられますか」と大声で叫んだ。庫裡の引戸を後手で閉めて自宅事務所より一メートル程も高い土間の天井の昼の闇を見上げた。外の冷気が遮断され自分の呼気の暖かさにほっとする思いだった。出てきたのは四十代の恰幅のいい赤ら顔の坊主だった。「突然すいません。私こういう者す」と言い乍土岐は一歩踏出して名刺を手渡した。坊主は立った儘名刺に見入っている。「ご用件は」「廣川弘毅という人をご存知すか」「名前は聞いた事があります。確か大叔母の連れ合いじゃないでしょうか」と言い乍坊主は玄関と廊下の境目に爪先を立てて座込んだ。土岐は土間に立った儘だった。「という事はこちらのご住職さんすか」「そうです」「廣川さんが亡くなられた事はご存知すか」「いいえ存じ上げませんでした。そうでしたか。廣川さんとは大伯母が亡くなってから全くお付合いが無くなってしまって疎遠になってしまって」「大叔母の圭子さんと廣川さんについて何かご存じの事はありませんか」「廣川さんとは先々代の祖父の葬儀の時に一回だけお会いした事があるだけで、まだ子供だったんで怖そうなおじさんという印象しかないです」「その葬儀の時のスナップ写真の様な物がありませんか」と土岐が聞くと坊主は重そうな腰を浮かせた。「あると思います。ちょっと時間がかかりますがご覧になりますか」「ええ是非お願いします」と土岐が言うと坊主は奥に引込んだ。待っている間土岐は上り框に腰かけた。四、五分して坊主がスナップ写真を一枚持って現れた。「右が廣川さんで左が永田賢蔵さんです」廣川はパスポートの写真と余り変わらない。永田と説明された男は黒い法衣を纏い数珠を持っていた。肉づき、背丈、姿勢、顔の輪郭が廣川によく似ていた。兄弟と言われても疑いようのない感じだった。「ナガタケンゾウというのはどういう字を書くんすか」「永い田んぼ賢い蔵と書くと思います」「この写真、コピーを取らせて貰えますか」「いいですよ。駅前に斎藤写真館というのがありますから、そこで複写されて現物はそこに置いといてくだされば後日ついでの時に取りに行きますので」「どなたか廣川夫妻の事知ってる人はいませんしょうか」「さあ六十年近く前の話ですからね。ただ、一度だけ父からは大恋愛だったという様な話は、ちらりと聞いた事があります」「大恋愛」「というか、廣川さんが略奪したというか、祖父は余り賛成ではなかったとか、寧ろ反対だったとかそんな様な話です」「反対という理由は何だったんすか」「確か戦時中、宗門の集まりで祖父が京都に行った時、大叔母はある侯爵家の末の子息と見合いをしたそうです。大叔母は大層な美人だったもので。後で分かった事ですが、その侯爵家の書生が廣川さんだったとか。天涯孤独の身上で廣川というのはどこの馬の骨とも分らん奴だと祖父は毛嫌いしていました」「戦時中は廣川さんは陸軍にいたんじゃないんすか」「さあその事は聞いてません」「その侯爵家というのは京都ですよね」「そうです」土岐の頭の中で事件の核心に迫りそうな疑問の渦が回転し始めた。「その侯爵家というのはどちらすか」「清和家です」「まだ京都におられるしょうか」「さあ。どれもこれも聞いただけの話なんで。六十年以上も前の話ですから」「どうもお忙しい所有難うございました。何か思い出される様な事がありましたら名刺の電話番号迄ご連絡頂ければ幸いです」と法蔵寺を辞して駅に戻り乍、住職が記憶の糸を辿る様にして言った清和家という名前をどこかで聞いた様な気がしていた。
■土岐は駅前の写真館で先刻のスナップ写真のコピーを依頼した。出来上がったコピーを手帳の間に挟んだ。次にインターネットカフェを探した。見当らないので観光案内所で聞くと旅館の一階の喫茶室にインターネットの設備があるとの事で、その旅館に向かった。北国という旅館は駅前商店街の中程にあった。先刻その前を通過していた。その時は土産物屋だと思っていた。旅館の小さな立て看板が出ていたが玄関の手前が土産物売場になっていた。喫茶室は玄関の右手にあった。フリーの客が相手ではなく投宿している客を対象としている店の様だった。旅館の浴衣とスリッパをはいた客が二人、珈琲を飲んでいた。パソコンは十分百円になっていた。豊橋の陸軍予備士官学校に入学したはずの廣川がなぜ京都の侯爵家の書生になっていたのかと呟き乍土岐は仲居の様な店員に珈琲と千円札の両替を頼んだ。インターネットの紳士録のサイトで清和、侯爵、京都をキーワードとして検索してみた。ヒットしたのは清和俊彦という人物だった。そこで土岐はやっと思い出した。坂本の黄綬褒章の推薦書を書いた人物だ。文化団体とかNGOとか市の委員会とかカネと余り縁のなさそうなお飾りの様な肩書がずらりと並んでいた。交友欄に久邇商会会長の久邇頼道という名前があった。本職は駐車場管理会社の代表取締役の様だった。土岐はその会社に電話をかけ夕方四時過ぎに面会の予約をとり京都に引返す事にした。三時過ぎの特急サンダーバードに乗込んだ。京都に着いたのは四時過ぎだった。駐車場管理会社の事務所は新京極方面の駅前ビル裏手の狭い路地の二階にあった。受付の女子事務員に面会の予約を告げると隣室に通された。八畳程の応接間だった。ブラウンのソファに勝手に腰かけて待っていると、暫くして馬面のどこか間の抜けた五十代後半のなで肩の男が出てきた。土岐は名刺を出し挨拶した。「どうもお忙しい所お時間を頂きまして恐縮す」俊彦は不潔な物を触る様な手つきで名刺を受取り能面の様な顰め面で文字を読んでいる。鼻先で読んでいる様な印象だった。「土岐はんと言わはれると清和源氏の」「そうです。昔からそう言われてます」俊彦の顔がだらしなく綻んだ。眉先が目尻に着きそうになっている。「何百年か辿ればどこかであんたはんと繋がるかも知れないどすな」「いや私の方はどこの馬の骨だか。明治維新の時勝手に土岐を名乗ったのかも知れないす」「そうでっしゃろな」と俊彦は侮蔑する様な笑みをもらす。「お伺いしましたのは戦時中清和家で書生をしていた廣川という男の事で」「戦前の話」と俊彦の締りのない顔が吃驚した様に歪む。「私は生れとりません」「太平洋戦争の頃の清和家の事なんすが、何かご存じの事はありませんか」「その頃の当主英彦は祖父で祖父は昭和初期に米国に留学した事があってアメリカ人の知己が多かったと聞いてます。昭和天皇様と親しかった東京の公爵家に刎頸の友がいて、そこの方とは私も東京に行った折、会食する事がままあります」「差支えなければお名前を教えて頂けますか」「どうでっしゃろ。先方はんにお聞きしてみないと。勝手に紹介したとなると折角のいいお付合いに水が差されますので」と勿体ぶった様な言い方に小さくふっくらとした鮪の赤味の様な唇が盛り上がっている。物欲しげなニュアンスを土岐は感じた。しかし土岐は土産を何も用意していない。「実は戦時中、敦賀小町と呼ばれた女性が清和家のご子息とお見合いをされた様でして、その時廣川という人物が書生をしていた様でして、その廣川が戦後その敦賀小町と結婚し、つい最近電車の事故で亡くなったんす。その事故がどうも殺人の疑いがあって調査してます」「と言わはれますと土岐はんは警察の関係のお方で」と言い乍俊彦はセンターテーブルに置いた土岐の名刺を見返す。「いえ、ある人の依頼で調査してます。殺人となると容疑者がいるはずで、その容疑者がどうも昔関係のあった人物ではないかという事で調べてます」「でもその敦賀小町とかいう女性がお見合いをしたのは叔父ではないでしょうかねえ。敦賀には知合いの華族さんはおられなかった思います。私の父は公家同士で結婚してますから敦賀のお人とお見合いする事はなかった思います。私の家族も容疑者の一人いう事ですか」と陽に焼けた俊彦の顔が情けなさそうに笑っている。土岐はゴルフ焼けだと見立てた。「とんでもない。容疑者になる様な人についてお聞きしたいという事す」と話し乍、敦賀の旅館で検索した紳士録の項目の中の交友関係という項目に久邇頼道という名前のあったのを思い出した。俊彦が東京で会食しているというそれらしき人物である可能性があった。久邇頼道という名前が土岐の喉元迄出かかったが土岐はそこでの聞出しを諦めた。俊彦の気分を害したくないという思いがあった。「そうゆえば、その頃奉公してた及川光子いうばあやが北白川に隠居してる筈どす。そこでしたらご紹介できます」と言い乍俊彦は秘書を呼び年賀状を持ってこさせた。俊彦は一枚一枚差出人を確認している。「律義なばあやで私の父が亡くなった後も私宛に年賀状を出し続けてます。五十年以上も」と俊彦は目当ての年賀状を探し出し、差出人の住所氏名電話番号を読み上げた。土岐は手帳に速筆でメモした。「どうも貴重なお話を有難うございました。今日は急に清和家の話が出ましたもので突然伺ってしまいました。また京都に来る事があると思いますので、その時は何か東京の名物でも持参させて頂きます」と言うと俊彦の顔つきは柔和になった。心の動きが馬鹿正直に表情に出る男の様だった。「所で話は違いますが神州塗料の坂本さんの黄綬褒章の推薦状を書かれたとか」「あれは神州塗料の会長はんに頼まれたんどす。会長はんは東京の社外監査役で長瀬はんとかゆう会計士の入れ知恵だとか言わはってましたけど。でも実際に説明に来たのは東京の金井はんとかゆうお人で」長瀬という名前と金井という名前に土岐の耳が反応した。土岐は金井について確認した。「金井というのは金井泰蔵の事すか」「探せばどこかにお名刺は有る思うんですけど下のお名前迄はちょっと。眼の鋭い人で面立ちは何とのう昔の華族さんの様な感じどしたけど、でもちょっとお品のない様な人どした」「それから坂本さんに浦野さんの胸像の購入を勧めたとか」「浦野はん?」「東京の芸大の方だとか」「あれどすか。あれは金井はんに紹介されて、坂本はんに勧めました。浦野はんゆうお人は知りません」紹介料を幾ら貰ったかと聞きたかったが我慢した。
■外に出るとすぐ清和家のばあやだった老婆の家に電話した。本人が出てきた。九十歳近い高齢のはずだがしっかりした口調だった。最初は土岐を警戒していた様な雰囲気だったが「清和俊彦さんの紹介で」と言うとその警戒が解かれた。市バスで北白川に向かった。老婆の家は京都大学の東隣辺りにあった。仕舞屋風の古い民家だった。屋根が低く、玄関の敷居が頭にぶつかりそうだった。玄関に入ると、板の間に老婆が正座して待っていた。土岐が挨拶すると老婆は玄関脇の四畳半程の茶の間に土岐を招じ入れた。畳が波打つ様に歪んでいた。「狭い所でお茶位しかありませんが」「どうぞお構いなく。突然訪ねてきまして申訳ありません」「いいえ、何もしないで年金で細々とお上に暮らさせて貰っていますんで退屈凌ぎになります」「早速すが終戦間際の清和家の書生についてお聞きしたいんすが、その頃廣川という人がいたと思うんすが、その人について何か思い出す事がありましたら」老婆は急須を傾け乍首を捻る。目が皺だらけで考えているのか眠っているのか分らない。「お二人ばかりいらはりましたが太平洋戦争勃発前後は河村倉之助はんゆう方で、すぐ徴集されはりました。次に来られたのは松村博之はんゆう方で、この方は肺病やみで除隊されはった方なので、肺病やみだから召集されはる事はないので書生に宜しいご当主が言わはれまして、確か昭和十九年だったと思います。女中頭の木村麻子の親戚のご紹介だゆうことどした。だから身元は確かだろうゆう事で」と話し乍老婆はスーパーの広告の裏に持つのがやっとという短い鉛筆で二人の名前を書いた。土岐はそれを手帳に写した。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書「学僧兵」十月三日1

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投稿日:2022/04/07 14:19:42

文字数:5,503文字

カテゴリ:小説

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