熟れたレモン色の光に刺激され目が覚めた。どうやら私はカーテンを閉めずに眠ってしまったらしい。
どれ程酒を呑んだのだろう、眠る前の事は何も思い出せない。それでも呑んだ事だけは覚えてるのだから記憶とは不思議なものだ。幸い、頭と目がぼんやりするだけで頭痛はない。
さて二度寝しようとカーテンに手を伸ばした。が、空振りした。どうやら二日酔いと寝ぼけで変なところに手を伸ばしていたらしい。もう一度手を伸ばそうとして、はたと気付いた。カーテンはどこだ?
と言うよりもこの部屋はどこだ?
まさか寝ぼけて見知らぬ家に入り込んだ訳ではあるまい。しかし見れば見るほど私の部屋ではないことが窺える。ピンクのパイプベッド、カーテンの無い嵌め殺しの窓、妙に落ち着かない壁紙。もしかしたら昨日見知らぬ誰かと飲み明かしたのだろうか。だとすればこの状況にも説明がつく。一刻も早く家主と会って礼を言い我が家へと帰りたい。
そんな願いが通じた訳ではないのだろうが、部屋の扉がギイと重々しい音を立てて開いた。
どんな挨拶をしようかうすらぼんやりとした頭で考えているとギョッとした。「ヤアヤアお目覚めですか、お加減はいかがですかな?」と言ったのは人影の様に真っ黒いヒトガタだった。その隣にはやはり顔は見えないが白無垢がいる。と言うことは人影は礼服かもしれない。
「オヤ、どうしました顔色が優れませんよ?」 独特のイントネーションでヒトガタは言う。二日酔いどころか今も酔い潰れてる最中らしい。全く、家主をヒトガタなんて呼ぶのは失礼千万ではないか。取り返しのつかない失礼をしている気になり、至極居たたまれない気持ちになった。
ありがとうございます、どなたか存じませんがありがとうございました、と丁重に礼を言うと家主は笑い声を上げ、「ココは病院ですよ」と言った。
病院ですか。私は自分に言い聞かせるように言う。ヒトガタは頷いた。ならば白無垢に見えるのはナース服だろう。しかしどう見ても新郎新婦にしか見えない。酔い醒ましに水でも飲んできた方が良さそうだ。水道はどこにありますかね。ヒトガタに問うと、「■■■■■サン、今日は■曜日です。残念ながら使える水道はございません」と申し訳なさそうに言い、白無垢はゲラゲラと感情の無い笑い声をあげた。何曜日ですか? 聞き返すとヒトガタはゆっくりと、「■曜日です」と言った。
今日が何曜日か果たして分からないがどうやらこの病院は週一で水道が使えなくなるらしい。なんともタイミングの悪い。自販機で何かと思ってもそもそも財布なんて持ってるはずがなかった。かと言ってお金を借りるわけにもいくまい。あれこれ考えあぐねているとヒトガタは「ノミミズなら外にありますよ。■ノ■タに案内させましょう」と言った。■ノ■タとは白無垢の名前だろうか。なんとも風変わりな名前だ。■ノ■タはゲラゲラと乾いた笑い声をあげながら深々と頭を下げた。私もそれにつられ頭を下げた。何かおかしい感じがしたが酔いのせいだろう。
■ノ■タは何も言わずただついてこいと言わんばかりに踵を返すので私は慌ててベッドを降りて■ノ■タを追う様に部屋を出た。
決して健康体と言うわけではないのだがそれでも入院したことが一度もないと言うのが私の密かな自慢である。これは遠回しに病院がどのような場所なのかよく知らないので詳しく教えて欲しいと言う意味なのだが、■ノ■タは何の反応も見せてはくれない。遠回しな言い方が気に入らないと言うよりもそもそも耳に届いてさえないような気がする。この病院では私語の一切を禁じているのだろうか。他の患者への配慮にしても行き過ぎの気もするが私が非常識なのだろうか。
互いに無言のまま病院の玄関を出、私はいよいよ自身の眼と頭を疑った。
なんとレモン色の空に浮かぶ雲の底から灰色の刺が地上に向かってまるで毬栗(いがぐり)の様に生えているではないか。私はダメ元で、あの雲はなんですか? と■ノ■タに訊いた。果たして■ノ■タは、「今日は■曜日ですよ? 雲にビルが刺さるのは当然でしょうゲラゲラ」と初めて私に対して人間らしい反応を示した。
雲にビルが刺さる? 私は■ノ■タが反応をした事への感動よりも聞き慣れない言葉の組み合わせに首をかしげた。摩天楼ならばビルに雲がかかることもあるだろう、しかしあそこに見えるのは雲にびっしりと生えたビルの群。この場合■ノ■タの言葉はそのままの意味でしかない。
「ゲラゲラゲラ、ビルは刺さるものでしょう。寝てる間に脳髄裏返ったんじゃないんですか。額のファスナー開けて調べて差し上げますよ、ゲラゲラ」というので、ありがたいお話ですがあいにく私の額は広くとも脳を出し入れするファスナーはついてないのです。
看護婦特有のジョークとだろうと思い、気を悪くせぬように言い回しを気をつけて言ったつもりだったのだが、■ノ■タは私の熱でも測るように影のように黒い手を伸ばし、「ゲラゲラ、その手じゃ開けれないでしょうから私が開けましょう」と、慣れた手つきでじーーーっと額のファスナーを開けると、タラタラと血と脳漿の混じった液体にまみれた脳みそを取り出して、私の目の高さに持ってきて見せた。見たことはこれが初めてだが、それは紛れもない私の脳である。
「ああやっぱり、脳髄が裏返って神経があやとり状態だ。ゲラゲラ、よくもまあこんなになるまで呑んだこと。大切じゃないならこのまま錆びつかせましょうか?ゲラゲラ」
冗談じゃありません。私の脳はこれからも私のものなんです、どうかお願いです元に戻してください。私は脳漿の涙を零しながら懇願した。脳を握られては私の命を否、私の存在を握られてるも同然ではないか。病院は患者の命を救う所だと聞いてはいたが患者を手中にする場所とは寡聞にして聞いたことがない。私の見識の狭さを恥じるばかりだ。
■ノ■タは「ああ、だいぶ脳漿減っちゃってるねえ。これじゃあ戻しても錆びついちゃいますよゲラゲラ。いっそ自分の脳髄食べてみます? 脳漿満たされますよ」と恐ろしい冗談を言うばかりで脳を一向に返してくれない。それどころかわざわざ私の目の前で脳を舐め回す様にじっくりと鑑賞し、挙句の果てに割ってはくっつけ割ってはくっつけ子供の粘土遊びのようにこねくり回しついには灰色の塊に変えてしまった。唯一形を保っているのは私に繋がっている神経だけだ。
「ゲラゲラ、これで神経はすっきり元通り。脳髄は灰色だけれどゲラゲラ、問題はないみたいですね」
人の脳を灰色の塊に変えて何が問題ないというのだ。そろそろ返してもらわないと脳が乾いて本当に錆びついてしまう。原形を留めない分にはまだ良いが錆びついては一生にかかわる。何故このような危険極まりない看護婦をこの病院は雇っているのか文句の一つでも入れなくては腹の虫も治まらない。無論それはこの先脳が錆びることなく無事私の頭に納まってくれればという前提がつくが。
やがて■ノ■タは灰色の塊を元あった場所に納めると「さあ、これでひとまず大丈夫。脳漿が足りればだけどゲラゲラ」と乾いた笑いを上げた。
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