と、自分の危機にも気がついていない様子でユキちゃんが、ミキちゃん知ってた?と少し心配そうに声をかけてきた。
「カイトさん、遠くに行っちゃうんだって」
一瞬、世界中の音が遠くなった。
「え、何それ」
意味が分からずそう問い返した私にユキちゃんは心配そうにその黒目がちの瞳を揺らした。
「なんかね、実体化の実験に参加するからしばらくその研究所に籠るんだって」
実体化って。何それ。
「知らない、よ」
何その実験体って。何それ知らない。
 寝耳に水とはこういう事を言うのだろう。そのまま固まってしまった私の頭をキヨテルがこつんと小突いた。
「フリーズするな。別に永遠に会えないわけじゃない、その実験が終わったら絶対帰ってくるからってカイトさんは言ってたぞ。大丈夫だって」
フォローなのか何なのか、珍しくキヨテルが嫌みのない口調でそう言った。その言葉に、そうだよね、と私は頷いた。
 けれど。と思う。
 絶対に大丈夫なんて事はこの世には存在しない。

 そろそろマスターの帰ってくる時間だったので、悶々としたものを抱えながらもキヨテルたちと別れて私はパソコンへ戻った。一瞬、カイトさん達の暮らすパソコンを訪問してみようかなとも思ったのだけど、何の連絡も入れずに突然訪問してしまっては迷惑かもしれないし、何かしらのセキュリティが働いてしまうかもしれないからやめておいた。
 カイトさんを訪れたところでなにを言えばいいのか解らないし。
 実体化ってどういうこと?研究所に籠るって、それってつまり連絡も出来ないってこと?絶対帰ってくるって言うけど、その根拠はどこから?
 訊きたい事は沢山あった。けど、返事は聞きたくなかった。どんな返事が帰ってきても不安が消えるわけじゃないって、それだけはよく解ってた。
 カイトさんのところにはボカロが沢山いる。だからこそ、カイトさんのマスターはカイトさんを手放したのだろうか。沢山いるから、一体くらいはいなくなっても良いだろうと、そう思ってカイトさんをその実験に差し出したのだろうか。
 気がつくと、無意識の内にそんな憶測を立てている自分に、嫌気がさした。
 そんな事無いのに。カイトさん達のマスターが優しくていい人だってことは、カイトさん達からこれでもかって言うほど聞いているのに。嫌な事を考えてしまう。そんな自分が嫌だった。
 
 相変わらずごちゃごちゃと物の多いパソコンの、定位置である録音室のソファーに座ってぼんやりしていたら、かちり、とパソコンが起動する音が響いた。ボーカロイドソフトも一緒に立ちあげたのだろう、部屋の灯りがぱちりとついた。
「…ただいま」
マスターだった。声が低い。何か嫌な事でもあったのかな。
 おかえりなさい、と画面のこちら側から声をかけてびっくりした。マスターの目のふちが真っ赤だった。ホント色々重なる時は色んな事が重なるらしい。思わぬ出来事に、どうしたんですか、と言い掛けた私を遮る様に、マスターのその赤く染まった瞼からぼたりぼたりと大粒の涙が零れ落ちた。
「好きな人に振られた」
ぼたぼたと大粒の涙をこぼしながら呻くような声でマスターはそう言った。
 例の、私を買うきっかけになった好きな男の子の事だと気がついた。
 ずっとずっと、マスターがその子の事を好きな事を知っていた。バレンタインにもチョコをあげたの、知ってる。義理チョコと勘違いされちゃったけど。なんて苦笑してたマスターも、知ってる。
 その、男の子に振られたんだ、マスター。
「もう卒業だから、言った。これ逃したら後は卒業式しかないから。友達も、好きな子に告白してて、そっちは上手くいって、私だけ駄目だった。こんなのに優劣は無いけど、でもなんだって私だけ駄目なのよ」
ぼたぼたと落ちる音が聞こえてきそうなほど大粒の涙をこぼしながらマスターはそう言った。
「大丈夫ですか?」
思わずそう聞いてから、しまった。と思った。大泣きしているのに、大丈夫なわけがない。
 案の定、マスターは涙をこぼしながら小さな子供みたいに首を横に振った。
「友達としてしか見てなかった。って、何それ、こっちは精いっぱいアプローチしてたのに。チョコだって、似合わない手作りしたのに。ちくしょうふざけんな、気がつけ馬鹿野郎」
ありったけの罵詈雑言をぶちまけて、マスターはぼろぼろと涙をこぼした。
 画面のこちら側に居る私は泣いているマスターをどうする事も出来ない。ただ、マスターが辛いという気持ちだけは良く解る、解るから。
「…なんでミキまで泣いてんの」
「マスターが泣いてるから」
ぼたぼたと私も涙をこぼしながらそう言った。人はなんだって泣く機能まで私たちに付けたんだろう。ちょっと悪趣味だ。
画面のこちら側でなすすべもなく泣く私に、泣くなばぁか。とマスターが泣き笑いの表情で言った。
「人工知能のくせに、同情して泣くなんて生意気」
そう言って少しだけ笑って、けれど直ぐにマスターは顔をくしゃくしゃにして泣いた。
泣いて泣いて泣き疲れるまで泣いて。マスターはどこかすっきりした表情で涙を拭った。泣きすぎてマスターの瞼は腫れていて、思わずその顔を見て笑っていたら、マスターも私の顔を見て、ふと吹きだした。
「ミキ。あんたの顔もひどいよ」
その言葉に、私も泣きすぎて熱を帯びた頬や瞼に触れてその感触にしばしショックを受けた。がーん腫れてる。私もマスターみたいに酷い顔になっているみたいだ。
「どうしてここまで人に似させて作ったかなぁ」
そうぐちをこぼすと、はは、とマスターは楽しそうに笑って、少しだけ困ったように首をかしげた。
「あんたはホントに人みたいで困る」
何が困るのか、と訊こうとして。けれどその前にマスターが寝る、とパソコンの前から離れた。
「泣きすぎて疲れた。寝る」
そう視線を逸らされながら言われて。何かもやりとしたものを感じながら私は、おやすみなさい、と言った。

 それからマスターはずっと、私を、ボーカロイドのソフトを開こうとしなかった。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

泣き虫ガールズ・3

閲覧数:72

投稿日:2012/03/08 15:40:38

文字数:2,477文字

カテゴリ:小説

クリップボードにコピーしました