■秋の彼岸も終わり寂しげな店先だった。花立てを店の中にしまい、店内に動きまわるスペースがない様に見えた。半分照明が落とされていた。土岐は草花の青臭い匂を鼻腔に感じ乍大渕花卉店と金文字で書かれている硝子扉を開けて店の外から声をかけた。「今晩は。どなたかおられますか」三十前後の女が座った儘店の奥の茶の間に続く引戸を開けて首だけ出した。「はあなんどすか」「そこの智恩寺で聞いてきたんすがこちらに八十位の御隠居さんがおられるそうで」女は細面の一重瞼の紅いおちょぼ口で言う。「へえ智恩寺はんで。大隠居ならここにおりますが」「夜分すいませんが少しお話を伺えませんしょうか」と言う声を聞いて鰓の張った銀髪の老人が女が引戸に掛けた手の下から皺だらけの顔を出した。眠そうに見えるが瞼が垂れ下がっているだけの様だ。「智恩寺はんがなんどすか」「ちょっと戦時中の事でお聞きしたい事がありまして」と土岐が言うと老人は耳に右手を添えて猫の様に左手で手招きした。土岐は低頭し乍黒い強化プラスティックの花立てを掻分けて店の奥に入った。菊花の謹厳な生々しい香りが鼻をついた。「東京の方どすか?まあお茶でもどうどうすか」土岐が茶の間を伺うと先刻の女がベージュのスラックスの小股を切上げて立ち茶箪笥から湯呑を取出していた。老人に招かれる儘に土岐は茶の間の磨り減った畳の縁に腰かけた。「ちょっと事情がありまして戦時中に智恩寺にいた三田法蔵さんについて調べてます」「三田法蔵」「ご存知すか」「ご存じも何も法さんと家のかみさんを奪合ったのよ。まあ男のわいも惚れ惚れする様ないい男はんやった。おまけに勉強がようでけた。それが海軍予備生徒に合格して詰襟の第二種軍装の純白の軍服で来たもんだからうちのかみさんはイチコロよ。それだけじゃない。街中を歩くだけで若い娘たちが遠巻きにきゃあきゃあゆうとった。今でゆうアイドルやった」女が土岐の前の畳の上にお茶受けを置き、その上の茶碗に急須を傾けた。「へえ。おじいはん、そんな話初めて聞くわぁ」老人は得意げに話を続ける。「智恩寺の檀家総代に江戸の御代に庄屋様だったお宅があってそこの旦那はんに頼まれてわいがほの字だった娘の家庭教師に法蔵を紹介したのよ。そしたらそこの若奥はんと法蔵がでけてしもうて旦那はんにばれる寸前で海軍に行ったからよかったものの。わいは娘の方が目当てだったから密会の茶屋の手引したり、あれやこれや、やったもんよ」「長田賢蔵という人も智恩寺に一緒におられたと思うんすが」「ああ賢蔵はんね。まあ法蔵と比べると影の薄い人やったけど還俗されはって戦後もずうっとこの界隈に貴金属やら骨董の行商に来られはっとったな、一時期やったけど」「それから向かいの駐車場に住んでおられた廣川さんは御存じないすか」「弘毅はんね。文学好きな人やった。いつも円本や岩波文庫ポケットに隠して持たれて」「作家の塔頭哲斗はどうすか?そこの禅宗の清浄寺の小僧でいたそうすが」「そうらしいのう。当時は知らなんだ。本名は確か舘鉄人どしたな。あのお寺は別の花屋が出入りになっとるんで清浄寺とは近こうおますけどあんまり縁がのうて。戦後ようカストリを一緒に呑んだのは弘毅はんと賢蔵はんと、ほんのいっ時やったけど、いや弘毅はんはひと月位しかいなはらへんかったから賢蔵はんとは一緒に呑まへんかったかも知れまへんな。法蔵とはついに一度も呑まなんだな。ひょっとしたら塔頭哲斗とも一度か二度一緒に呑んだ事あったかも知れまへんなあ。あの当時は若かったし、無茶苦茶やっとったし、いつも一人か二人弘毅はんか賢蔵はんのお友達がおったわ」左目が白内障の様だった。入れ歯が齟齬をきたし言葉つきも怪しい。しかし記憶は鮮明の様だった。

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土岐明調査報告書「学僧兵」十月五日2

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投稿日:2022/04/07 14:29:21

文字数:1,536文字

カテゴリ:小説

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