こんにちは!栗山和輝です。
創作という行為は、誰もいない真夜中の公園で七色に光る石鹸を泡立てるようなものかもしれません。
私たちは手を動かし、泡を作り、それが風に吹かれて空へと消えていく様子をただじっと見守っています。
デザインや言葉を形にすることは、その消えていく泡の中に、一瞬だけ誰かの記憶を閉じ込める儀式なのです。
私がかつて出会ったある詩人は、言葉を食べる金魚と一緒に暮らしていました。
その金魚は、主人が書き留めた感情の断片を、まるでおやつを食べるように静かに飲み込んでしまいます。
金魚の腹の中で言葉は溶け合い、やがて水槽全体が、誰にも解読できない不思議な色彩に染まっていくのです。
私たちの作るコンテンツも、この金魚の腹の中にある言葉たちと同じではないかと考えることがあります。
誰かに届けようと必死に紡いだメッセージは、受け取った側の心の中で形を変え、全く別の意味へと変質していきます。
作り手の意図を超えて、作品が勝手に呼吸を始め、見たこともない場所へと歩き出していく恐怖と喜び。
雨が降っていないのに、街中の人々が透明なパラソルを差して歩いている光景を想像してみてください。
パラソルは空からの光を屈折させ、歩道に歪んだ虹の影を落としていきます。
私たちはその見えない雨から身を守るために、無意識のうちに自分を覆う膜を作り上げています。
デザインという道具は、そのパラソルの骨組みを整え、膜の透明度を調整するために存在しています。
もしもパラソルが完全に消えてしまったら、私たちはむき出しの現実に耐えることができるのでしょうか。
石鹸の泡が弾けるたびに、世界の解像度は一ミリずつ下がり、隣にいる人の顔さえもがぼやけていきます。
私が描く線や、配置するボタンの一つ一つが、このぼやけた世界を繋ぎ止めるための細い糸となります。
しかしその糸は、引っ張れば簡単に切れてしまうほどに脆く、頼りないものです。
金魚は今夜も水槽の隅で、私が昨日捨てたはずの古い後悔を、ゆっくりと咀嚼しています。
飲み込まれた後悔は、金魚の鱗をより一層鮮やかに輝かせ、部屋の壁に奇妙な幾何学模様を映し出しました。
あなたは今、自分が差しているパラソルの柄が、冷たい氷でできていることに気づいているでしょうか。
手のひらの熱で溶け出した氷は、あなたの袖を濡らし、やがて足元に小さな水たまりを作ります。
その水たまりの中に映っているのは、あなたが知っている自分ではなく、七色の泡の中に閉じ込められた異形。
私たちは表現することで自分を救おうとしますが、実際には自分をバラバラに分解しているだけなのです。
泡がすべて消え去ったとき、公園にはただの静寂が残り、金魚は空っぽの水槽で口をパクパクと動かしました。
それが助けを求める合図なのか、あるいは新しい歌の始まりなのか、知る者はもうどこにもいません。
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