私は神殿の一角で清掃をしていた。
今日も声楽の授業で居残りをさせられ、神官さまから溜息を吐かれた。
でも、楽譜通りに歌っているのに、及第点をくれないのはそっちじゃない。
頬を膨らませ、黙々と実習室の机を乾拭きする。
……嘘。
本当は自分でも解ってる。
授業以外ではあまり歌ってはいけないのだけれど、実習室だという事もあって、私はこっそり歌を口ずさんだ。乾拭きする手にリズムを合わせ、春の恵みを祈る歌を。
小さく小さく、決して外には聞こえないように、これは私の秘密の練習。
とその時、いきなりドアがきぃっと音を立てた。
跳ね上がる程驚いて振り返ると、そこには、見覚えのない可愛い人が立っている。
「…あの、何か御用ですか?」
ここは今の時間、使う予定はなかった筈なんだけど。
問い掛けても、彼女はちょこんと首を傾げただけ。するりと実習室に入り込み、人懐っこい笑顔で私の腕を引く。
「え? あの、私、掃除中で…っ」
言いかけた私の唇に、彼女の指が触れる。
…女の子相手に、なんでこんなにやかましく鳴ってるの、私の心臓。
「あのーぅ」
掴まれたままの腕を見下ろして、彼女に向き直る。正面から見ても、やっぱり知らない人だった。
この区域は神学生、それも声楽を専攻している未来の「歌い手」候補しか立ち入らない筈だ。歳は私と同じか、少し下くらいだろうから、学生だとは思うんだけど……やっぱり見覚えはない。一通り生徒の顔は覚えてるつもりなんだけどなぁ。
「失礼ですが、お名前は? ここの生徒じゃないですよね?」
ここはシンプルに行くべきだ。単刀直入にズバッと聞いてみた。
でも返ってきたのはまたしても、可愛らしく小首を傾げる仕草。
あの、ともう一度声を上げようとした、その時。
「らー、らら、ら、ら」
「!?」
彼女の口から発せられた旋律は、私がついさっきまで歌っていたものだった。
彼女は笑顔のままその旋律をもう一度歌い、そして私の唇にもう一度指先をあててくる。
もしかして、歌えって事?
小さく、さっきまでと同じように歌う。すると、彼女も同じ旋律を歌う。
僅かにタイミングのズレを繰り返しながら、彼女は私が歌った一曲分をその場で覚えてしまったらしい。今度はある程度の声量で歌い、合っているかと問うように首を傾げる。
頷いて笑うと、彼女は嬉しそうにぴょんと飛び跳ね、私の手をぶんぶんと振った。
…私の歌ではほんの少しだけ…半音の半音程度音階がズレていたところを、彼女は正しく歌い上げている。
それが、……羨ましい。
複雑な思いで彼女を見つめると、彼女は私の手を離して、すぅっと息を吸った。
え、と思った次の瞬間、彼女の唇から信じられない大音量で歌声が溢れ出す。空気が振動して、彼女の方から風が吹いているかのような錯覚を覚える程の、圧倒的な声量。
「なに、これ……っ!」
耳がバカになりそう。
でも、彼女はとても楽しげで……
「何をしている!?」
突如割り込んだ男性の声で、彼女はぴたりと口を噤んだ。
ドアを開け、信じられないものでも見たかのように眉を寄せているのは、声楽の先生だった。
「! …君は、神学生だね? ここで、何を?」
先生はむりやり彼女から視線を外し、私に問い掛けてきた。
私は実習室の清掃をしていた事を話し、彼女が来たのも歌ったのも、怒られるのを承知で全て話した。隠し事は、こういう時自分を不利にするだけだ。
すると先生は、私に掃除はもういいから、ここで見た事は口外しないようにと言い含めた。
どういう事なのか気にはなったけれど、確かめる術はない。
先生に追い立てられるようにして実習室から出た私は、だからまったく何も気づいていなかった。
考えてみれば、彼女は一言も喋らなかった。らなかったのか、れなかったのかは知らない。
それに彼女の着ていた服は、私たち神学生の貫頭衣じみたものではなく、髪の色に合わせたらしい短い丈の長袖ドレスだった。髪だって、引っ詰めではなくサイドテールだったし。
思い返せば返す程、彼女はナニモノだったのかと疑問が湧いてくる。
それが、彼女と私の出会いだった。
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