まただ……。

お母さんが寝室に閉じこもっている。
僕が朝、起きた時にはもうすでにお母さんは閉じこもっていた。
2階のお母さんの寝室から、何かをしゃべっている声が1階の僕の所まで届いてくる。
何をしゃべっているのかは分からない。
何かを必死でしゃべっている…。
静かになったかと思ったら、突然大きな声を出したり…。

お母さん…どうしたの?
何か、怖いの?
お母さん…?
僕はお母さんが少し怖いよ…


ふと声が止んだ。
そしてバタンッ!とドアが開く大きな音がしたかと思うと、
ドタドタと大きな音を立てながらお母さんが一階に降りてきた。
僕の心臓の鼓動が嫌な感じに早くなる。
お母さんはリビングの方へは来ず、そのままお風呂に行った。
そして、お風呂の中で何かを一人でしゃべり始めた。
時々大きな声を出す。
その声は反響してかなり大きな音になるので、僕はその度にびくっとなった。
その日は遠足の日だった。
僕はお母さんが朝ごはんを用意してくれないので、リビングに座ってテレビを見ていた。
お風呂からの独り言が、ふいに止んだ。
戸が開く音がして、
「嘉人!居るの?」
ビクッとした。突然呼ばれたから。
「な…なにぃ?」
「今日って遠足の日なのよねっ!」
「う…うん!」
僕はリビングからお風呂場まで届くように大きな声を出した。
そして、なにやらお母さんがゴソゴソ動き始めた。
リビングに入ってきた。
「たいへんだわ!今から朝ごはん作るからちょっと待っててねっ」
お母さんは急いでベーコンと卵を焼きだした。

別にベーコンと卵を焼くくらい自分でも出来たと思う。
自分で朝ごはんを作って、それで自分で登校出来たと思う。
でもなんとなくリビングの床に体が吸い寄せられたままになってしまって動けなかった。
お母さんに車で学校に送ってもらった。
学校に着いて、お母さんはお風呂場でなにやら訳のわからないことをしゃべっていた時とはまったく別の、
はっきりとしっかりとした口調で
「遅れてすみませんでした」と、教頭先生に謝った。
僕もそのお母さんの変貌振りに少し驚きながらも、小声ですみません、と言った。

僕はさっきリビングで見ていたテレビ番組の事を考えるようにしていた。
お風呂でのお母さんのことを頭の中に残しておきたくなかった。
学校では、家の事は思い出したくない。
そういうのを持ち込みたくない。
学校の敷地内でああいう家の事を頭の中で考えることさえも避けたかった。
僕は学校では「普通」の人なのだから…。普通なお母さんの普通な子供なのだから。
でも、ついさっきの事だし、そう簡単に忘れることは出来なかった。
校庭に整列している4年生の全員がさっきのお母さんの様子を全て知っているような気がして、僕はそわそわした。
でも、そんなはずはない。
そんな訳はないんだって、割り切ればいいだけなのに、なんだか割り切れなかった。
自分の頭が透明で自分の思い浮かべている事が丸めなんじゃないかって、とても怖かった。

「じゃあね、嘉人」
僕は頷いた。
頷いて、頭を下に落とたままの姿勢で、列の方へ早歩きでいった。



最近のお母さんは可笑しくなってしまったのだった。
前はこんなんじゃなかったのに…。
お母さんが変な事をするのはお父さんがいない時だから、お父さんはあんまり気がついていないみたいだった。


 遠足はあまり楽しくなかった。でもお家に居るよりは楽しかった。
普段の学校のときもそう。家にいるより、学校に行っているときの方が気分がいい。楽しい。
特に何が楽しいというわけではないけれど、なんとなく雰囲気が健全というか、雰囲気がいいのだ。
たまに風邪気味で学校へ行ったら、風邪を引いていたという事を忘れて一日を過ごして、家に帰ってきてから、
今日風を引いていたんだって気付くことがあるけれど、その感じと似ている。
家にいるより、学校に居るほうが安心するのだ。
それはやっぱり他でもない、お母さんの関係なのだけれど…。

一度、お父さんにお母さんの事を言おうと思った事があった。
お母さんの様子が可笑しいっていうことを。
でもなんとなく言う事ができなかった。
僕はお母さんの事を他の人に知られるのが怖いと思っていた。
そして、お母さんの事を駄目な人だみたいに思うことが嫌だった。
お母さんの事を変な人だと思いたくなかった。
だから、僕は自分が抱いている「お母さんの様子を他の人に見られたくない」という感情を忌み嫌って自分の
感情であるということを認めたくなかった。
お母さんは僕の大切な、重要な人物なのだ。大切な家族なのだ。ヘンな人ではない!
僕はそう思っていた。


 やっとの事で病気の名前が判明した。
強迫神経障害。
よく意味が分からないけれど、そうなのだという。
先日、お母さんとお父さんと僕とで病院に行った。
お父さんに僕が話したのだ。
お父さんは僕が話すちょっと前からお母さんの様子が可笑しい事に気がついていたらしい。
ちょっと遅いかも…。
まあ、それにしても、とにかく状況は変わりつつある。
お母さんは大学病院の精神科に行った。
大学病院にくっついている、附属病院なのだという。
お父さんにしつこく聞いてそれを知った。
初めの内は病院と学校がくっついているという概念がいまいち理解できなかったけれど、だんだん慣れてきた。
実際に行って、慣れてきた。
それにそのことはあまり重要ではなく、お母さんの病状が大切なのだ。

カウンセリングという、お話合いをした。
生活の様子とか、どういった症状がでるのかとか。
お母さんの場合は、ガスコンロを何度も消えたかどうか確かめたくなるという症状だった。
本人は凄く不安らしい。
話をしているときもお母さんはいまいち下を向いていた。
先生の話を聞いて、この病気がどんな病気なのかが分かった。
強迫神経障害とは、病気ではなく、障害という扱いになるらしい。
何度も、鍵がかかっているか確認してしまうとか、車で誰かを轢いてしまったのではないかとか、
ガスコンロが付けっぱなしになっているかどうか気になって何度も何度も異常な回数確認してしまうとか、
手が汚いと思って、必要以上に手を洗い続けてしまうとか、お風呂で完璧以上な清潔さを目指して一度入ったらなかなか出て来られないとか、
そういう症状があるらしい。
僕のお母さんの場合は、コンロ確認、お風呂から出てこられないなどの症状が主なものだった。

病院へ行って、採血をしたときがあった。
そのときお母さんの様子がおかしくなって、凄く具合が悪くなって僕は驚いた。
他の人はやけに落ち着いていたけど、一時的にそうなることがあるとか先生や看護師さん達は言っていて、
僕はあせった。
大丈夫かな。あせったと同時にお母さんがこんな状態になってしまって、動揺した。
子どもというのはお母さんが危機になったりすると物凄く腹のそこからグイっと掴まれて揺さぶられるような不安感に
襲われることがある。

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ワカメの国 第五章 知識の人 木下嘉人の物語

インテリ系の男の子木下嘉人君。
彼は学校では気丈に振舞って居るが、家庭内ではお母さんが強迫神経障害に罹って仕舞った。其の事をひた隠しにする嘉人。

閲覧数:112

投稿日:2012/02/14 02:00:15

文字数:2,882文字

カテゴリ:小説

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