◆Ⅰ
部屋中を埋め尽くした、ガラクタ――かつての生活用品――を、テレビのほのかな灯が映し出している。
ブラウン管の中で実況者がわめく。
ぶつり。
ゴミだめの部屋の中、少女はブラウン管の電源を切った。
テレビの画面でわずかに明るかった室内も、直ぐに闇に飲まれてしまった。
締め切ったカーテンの外から、わずかに漏れる光が、外が昼だということをうかがわせる。
少女はガラクタをよけながら、丁寧に台所へと移動する。
冷蔵庫の扉を開け、それからすぐにため息をついた。
なにもない。
台所には、いつ置いたのかわからない食器、完全に液状化したかつて食べ物だった何か。
コーヒーの出がらし、腐った卵、こぼしてしまったシリアル、牛乳パック、それから、
酒瓶、酒瓶、酒瓶、酒瓶、酒瓶、酒瓶、酒瓶…。
「お父さん」
少女は暗闇の中に声をかけた。
「…お父さん。」
もう一度、声をかける。
帰ってきたのは酒臭い、寝ている気配だった。
酒がもう切れた。『林檎』も切れてしまったのだ。
買いに行かねばなるまい。食料は切らせると機嫌がとたんに悪くなるのだ。
…とくに、「林檎」――…。
少女はポケットに紙幣を突っ込み、帽子で目元を隠すととドアから外へとくりだした。
◆Ⅱ
昼と夕方のような、妙な時間帯。
少女はぼうっと空を眺めて、土手を歩いていた。
あの雲は、何に似ているだろうか。
あの雲は。…タバコの煙に似ているな。
我ながら、発想の下らなさに失笑した。
雲は煙だ。だから煙に似ているのだろう。当たり前のことだ。
しばらく進んで、住宅街に入った。
コンクリート壁には、いたるところに反吐の出るようなカラフルな落書きが施されている。すすけた、茶色い町並み。
警察はある。法もある。でも全てを統制もされていない、汚らしい、危なっかしい、でも。
そこに生きる人々は明るい町。少女はこの町が好きだった。
少女は頭の中で計画を立てた。
酒場は…最後にしよう。酒は重い。
まずは、食料からだ。それから、『林檎』。
少女はいきなれた食料品店のドアを押した。
「あら、いらっしゃい。随分久しぶりね」
見知った、人の良い婦人が出てきた。いつもお世話になっている女の人だ。
目じりには笑いじわ。口元にも笑いじわ。
いつも笑顔だから、そこに皺が出来たのだ。
が、その顔がいっぺんに恐怖と驚愕の色に変わった。
「ちょっと、あなた…!その目、どうしたの?!」
「ん…目?」
おばさんがすぐに自分の元へとやってくる。
確かに自分は変わった瞳の色を持っている、が。
「目の周りよ!目の周り!どうしたの!?真っ黒じゃない?!」
「ああ…。」
少女は目に手を当てた。
あざ。
両目の周りには、真っ黒な。少女の白い肌と対比するような。
まるで、パンダのような。『あざ』
「階段で、転んだ。」
少女はにっこりと笑った。
「嘘言わないで!どうやって階段を転んだらこんなになるのよ!」
「いや、器用に転んじゃってさ」
少女は愛想笑いをしていたが、おばさんの真面目な顔に口を閉じた。
おばさんが口を開いた。
「また…殴られたの?」
「…。」
少女は、答えない。
「ねえ、…早く…あのお父さんのところから。出て行ったほうが、いいんじゃない?」
おばさんが少女に語りかける。
「あんな人でも…父親、ですから」
少女が顔を上げた。
「でも…」
「…どこにも、いけませんよ」
少女がまた、パンダの両目でにかっと笑った。
◆Ⅲ
店を出て、次の店へと『林檎』の店へと向かう。
さっきのおばさんが、心配して打ち身の薬をくれたことだし。
早いとこ、用事をすませて帰ってしまおう。
『林檎』の店に行くなんて久しぶりだ。『林檎』なんて、めったに切れやしないのだ。
「いらっしゃい」
路地裏の露天の男の前で、少女は足を止めた。
「『カラカラの林檎』、あるだけ全部」
少女が表情を変えずに、口だけ動かした。
「金は?」
男が視線を上げずにつぶやいた。
「いつもの口座に入ってる。あと、注射器も」
「ひひひ、ご苦労なこった?」
男が不気味な笑いを上げた。
「余計なお世話」
少女は男から、注射器と白い粉の袋をひったくった。
「おめえの親父さん、最近どんな感じだい?」
「最高よ」
パンダの両目で少女が冷ややかに答えた。
「ひひ、それはよかった…、しかし、お前さんがここに来る頻度、どんどん上がってるじゃねえか…そんなんじゃお前の親父さん…もたないぜ?」
「・・・。」
少女は黙って白い粉と注射器をかばんの中にしまった。
「お前さんも『カラカラの林檎』、やらないか?気持ちいゼ?」
「結構よ。父さんみたいにはなりたくないわ」
少女がぴしゃりと跳ね除けた。
「しっかりした娘さんだ…おお、怖いねぇ」
男が笑いながら体を振るわせる。
少女がふと、口を開いた。
「…オピウムも、値段が高騰してきたね。…どのくらい、もちそう?」
「今回お前に渡したぶんで、俺が持ってるのは最後さ。」
男が笑いながら答えた。
『カラカラの林檎』…オピウムの、あだ名。
すなわち、…麻薬。
「…ほかに手に入るところ、知らない?」
少女が言った。
「知らないねぇ。俺も今日でこの商売は廃業だからな」
男がタバコに火をつけた。
「お前の親父さんも、そろそろ末期だな。実の娘に手を上げるようじゃ、おしまいだぜ」
男が少女の両目の痣を見ながら言った。
「階段で、転んだの」
少女が先ほどと同じことを繰り返す。
「そうかい、そうかい。大した階段だな。」
男がそっけなく言った。
「お前さんもそろそろあの家を出たほうがいいんじゃないか?なんなら俺が一晩買ってやってもいいぞ?」
「売女になんかなる気はないわ」
少女が言った。
「…あの家を出ないのか」
もう一度、男が言った。
「さあ?どこにもいけないからね」
◆Ⅳ
パンダ目の少女はさっきの町とはうって変わって、平和で美しい土手を歩いていた。
河の空を伝うように電線が連なっている。
土手の下では少年達が野球をしている。彼女自身よりも少し幼いのだろうか。
白い玉を追いかける少年達。少女が目でボールを追う。
と、ボールが突然こちらに飛んできた。
条件反射で、ぱしり、と少女がボールをキャッチした。
しばらくそれを眺める。ボールに縫われた紅い糸。まるで、切り傷のような。
「お姉ちゃん、ボール返して…ってうわああああ!」
少年がボールを回収しに走ってやってきて、少女を見るなり怯えて叫んだ。
ああ、
自分のこの顔、痣に驚いているのか。
「…どうした、少年」
パンダ目の少女が言った。
「え、え、えっと…」
「おねえさんはパンダだ。怖がる必要はないよ」
色白のパンダ目少女は、しゃがんで、少年にボールを差し出した。
「そ、そうなの…?」
少年がボールを受け取る。
「君達は、野球をしているのか?」
少女が聞いた。
「う、うん。さっき友達が帰っちゃってさ。一人メンバーが足りない上に、2点も負けてるんだ!もうすぐ家に帰らなきゃっていうのに…!」
少年が悔しそうに言った。
空は既に夕暮れ。そろそろ野球を終えて、子供は家に帰る時間だ。
すぐにでも試合は終了してしまうだろう。
少年のずっと後ろのほうで、ボールがまだなのかと仲間の少年達がこちらを見ている。
「じゃ、おねえさんがピンチヒッターでもしようか」
パンダ目の少女が少年に言った。
「ほんと?!」
少年が目を輝かせた。
◆Ⅴ
厳密なルールなんて存在しない、少年野球。
飛び入りだって、試合がすぐに終わったって、長引いたってそんなものは気にしない。
それでも、少年達の目は真剣だ。
突然の打者に仲間の少年達は困惑したようだが、直ぐに仲間に入れてもらえた。
周りの少年達よりも、明らかに背の高いパンダ目少女はホームベースに立った。
グラウンドには、1塁、2塁、3塁にに真剣な顔をした少年がこちらを見ている。
少女はバットを握り、ピッチャーの少年をにらみつけた。
それから、構える。
ボールが、ピッチャーの手から投げられた。
ああ、
紅い切り傷の入った、白い顔だ。
こちらを見据える、幼い少女の顔だ。顔を傾けて、何を見ているのだ。
まるで、自分の幼少時代のような。
―遅い。
親父のパンチに比べればなんのその。
少女は、白いボールをバットで叩き付けた。
すぐに白い弧を描いて、ボールが遠くに飛んでいく。
…ホームラン。
それから、歓声が上がった。
「ホームランだ!ホームラン!」
「すげえな、ねえちゃん!逆転だ!かったぞ!」
「くそ、こっちのチームに入ってくれればよぉ!」
「ただのパンダ女だと思ってたが、やるじゃねえか!」
「パンダじゃないな!ヒーローだ!俺らのヒーロー!」
「パンダヒーローだ!」
◆Ⅵ
暮れない陽はない。
あそこが夕方だとしたら、ここは夜だ。
「ただいま」
少女は、酒瓶の転がるマンションへと帰ってきた。
帰ってくるとわかる。臭い。腐っている。
何が。食べ物が?親父が、か。
「どこへ行ってた」
野太い声が、闇の中から聞こえた。もう、起きているらしい。
「買い物」
先ほどのパンダヒーローが、答えた。
「オピウム、買ってきたよ」
「よこせ」
パンダヒーローはだまって、暗闇に袋を投げた。
先ほどの報酬のガムを口に含む。汗臭い少年のポケットの味がした。
「酒がないぞ」
野太い声が返ってくる。
「…あ」
すっかり忘れていた。
帰り道は覚えていたはずなのに。少年と遊んでいる間にすっかり忘れてしまった。
「買い物に行ったのに酒を買ってこなかったのか?」
怒りと皮肉を含んだ声が聞こえる。
「…」
パンダヒーローは答えない。
がちゃり、と金属音が聞こえる。
バットを手に取った音だ。
…冗談じゃない。あんなので殴られたら即死するぞ。
だが、避ければ『歯向かった』と言われ、もっと殴られる。
どうすればいいんだよ。
「おい!聞いているのか!」
男の声でパンダヒーローは我に帰った。
ばき、がしゃん。
激しい破壊音が聞こえる。
暗くてよく見えないが、たぶん金属バットでテレビを叩き壊した音だ。
おいおい、私の唯一の楽しみの野球中継を奪うなよ。
「おい、こっちに来い!」
男が叫んだ。
「…。」
パンダヒーローは黙って退いた。
「俺に、逆らう気か?!」
「…。」
パンダヒーローは考えた。
私は先ほどヒーローだったのだ。打ったのだ。ホームランを出したのだ。
打って、遠くへ飛ばしたのだ。
何も出来ない幼い自分を。いや、何もしようとしない無能な自分を。
「うるさい、黙れ麻薬野郎が。」
パンダヒーローが叫んだ。
暗闇の無効で息を呑む音。当たり前だ、今まで逆らったことはなかったのだから。
「ふざけるな!殺してやる…!まちやがれ!」
一瞬の間の後、男がこちらへと向かってくる。
パンダヒーローはひらりと外へ逃げ出した。
後を追って男が、外へと出る。
ひゅー、あいつが外に出るなんて何年ぶりかな。
パンダヒーローはぺっと噛み終わったガムを吐き出した。
男の足取りはふらふらだ。
外にも出ず、麻薬と酒に入り浸ってた結果がこれだからな。
このまま私を追ってきてごらん。
美しい河原を通って、腐った町を通って、それから警察まで連れて行ってやるよ。
これでアンタの悪行もおしまいさ。
それから私はどうする?
どこにもいけない、なんてことはないさ。
主のいなくなった部屋に帰るもよし。食料品のおばさんのところで働かせて見るもよし。
恐れることはないさ、
私はパンダヒーローなのだから。
―END―
コメント0
関連動画0
ご意見・ご感想