帰ってきた瞬間に、なんだか態度がよそよそしいと思った。
おかえりなさい。と画面のこちら側から私が声をかけると、ただいま、と言いながらマスターは鞄を下ろした。あれ。と思う程度の微かなよそよそしい態度だった。声のトーンがいつもよりも平坦だ、とか、いつもほとんど投げ捨てる勢いの鞄を、今日はそっと床に下ろしたな、とか。そういう程度の違い。
けれど、嫌になるけど、こういう時のカンは当る。
「マスター、もしかして誰かに告白されました?」
とりあえずそう問いかけると、びくりとマスターの肩が震えた。
「え、あ、え、と。何で?」
明らかに動揺している様子で視線を泳がせながらそう言うマスターに私は苦笑した。
「本当に、マスターって分かりやすい人というか嘘が付けないというか。」
そう言って私は苦笑を張り付けたまま、分かりますよ、と言った。
「そんなのすぐに分かりますよ」
じりじりと胸の内で熱が帯びた。それはいつものものと少し違う、苦い味のする熱だった。
痛い、苦い、痛い。
苦笑を浮かべたままの私に、断ったんだけど。とマスターはベッドに腰をおろして呟くように言った。
「俺、受け取れないって断ったんだけど」
そう言い訳めいた口調で言い、途方に暮れた様子でわさわさと、頭をかきむしった。その様子に、マスターらしくないですね、と私は苦笑のまま肩をすくめた。
「去年まで、チョコいくつもらえるかな。なんて楽しみにしていたくせに」
茶化すように言って、大丈夫ですよ。と私は笑顔を張り付けたまま言った。
「だめですよ。折角貰ったのに断っちゃあ。愛想良くしないと。最近、彼女いないんだからマスター」
止まらない。苦い熱から目をそむけたくて、私は笑顔を張り付けたままおどけていた。
痛みを痛いと感じたくなかった。痛みの源を、何で痛いのかを直視してはいけなかったから。じりじりと、どろどろと、汚いものが膨れ上がりごぽりと音を立てて弾ける。
なんでこんなきもちまで、わたしをつくったひとはわたしにあたえたの?きれいなものだけがよかった。むじゃきなきれいなきもちだけでよかったのに。
直視したくない、身の内に広がる汚い感情に吐き気がした。マスターが同じぐらいの年頃の女の子と並んで歩いている所を想像したくないのに想像して、そして見も知らないその女の子に罵詈雑言を吐き散らかしている自分が、胸の内に存在していた。
見たくない見せたくない。知りたくない知られたくない。
「それ、本気で言ってる?」
不意にマスターが険しい声でそう言った。俯いていた顔を上げて、じっと真面目な顔でこちらを見つめてきている。微かに怒りを帯びているその視線を受け止めて、本気ですよ。と私は身の内に広がる汚いものを隠すように小さく笑った。
「本気ですよ?というか何でこんなことを冗談で言うんですか?マスターには幸せになって欲しいですもの、私」
それは、まぎれもない本当の気持ちだった。けれど、こうやって何かを誤魔化すために伝えるべき感情ではなかった。
それでもやっぱり本当の気持ちだから視線を逸らしたくなくて。私は中途半端な笑顔でマスターの事を見つめた。そんな私に、マスターはもどかしそうな表情で、だけどそれは、と言い掛けて、しかし言葉を失ったかのように口をつぐんだ。
「…もういい。わかった」
吐き捨てるようにそう言って、ああもう、と小さく喚きながらマスターは再び自分の頭を抱えてわさわさとかき混ぜた。
あれから一週間ほど。微妙にぎくしゃくした雰囲気が私とマスターの間にはあった。
朝になればおはよう、って言うし、帰ってくればお帰り。とも言う。学年末テストに向けて机に向かうマスターが、時折勉強がいやになって私とお喋りを始めるのだって、もういやだ一夜漬けで何とかなるよこんなの。って自暴自棄になったマスターに私は冷静な突っ込みを入れるとかだって、そのまま寝落ちしちゃったマスターを、このままだと風邪ひくよ。って私が画面を叩いて起こすのだって。
いつもと変わらない。けれど、その時々の瞬間。嫌な間があく。
本当に、微妙な間。
私に話し掛けようとする瞬間、マスターの視線が戸惑うように揺れる。どうすればいいのか選択を迷うような、そんな間がその瞬間、私とマスターの間に落ちる。
ずっとなんて、信じる事は出来なかった。ずっとこの関係が続くとはどうしても信じられなかった。呼んだ声の先にあなたが必ずいると、そんな都合のいい妄想を、ひかりに満ちた未来を、信じることすらできない。信じ続けるための力を、私はもう何も持っていないから。
選択を、私がすべきなのかもしれない。そう思った。
マスターはどうしても優しい人だから。優しくて弱い人だから。今現在の水の中に居るような状況に溺れて、どこにも駒を進めないだろうから。
そもそもこれは、私の事。
私が自分で決めないといけない事。
弱くて卑怯者の私は、マスターと同じように立ち止まる事を選んでいるけれど。でもそろそろ決めないといけない。
私に、まだ歌姫のプライドが残っているうちに。
それでも、決心を固めるために冬を終えて春が芽吹くまでに時間がかかってしまったけれど。
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