ふつり、とかそけき音を立てて、蜘蛛の糸は切れてしまった。指先にかかっていた負荷が一瞬にしてなくなってしまった。その淡い喪失に、かの人は唇をかんだ。
「救うことが、できなかった」
そう小さく呟いた声には、つぶやいた本人すら気づかぬ程度の赤い色彩が滲んでいた。
 ここは、美しい衣を纏い良い匂いで満ち耳に優しい楽の音が響く、天上の地。餓えることも、凍えることも、蔑まれることも厭われることも、この世の苦は何も存在しない、極楽と呼ばれる地でかの人は暮らしていた。
 かの人は、元はただの人だった。生きているうちに功徳を積み、修行を行い、悟りに至り。そして救世を求める人々の導き手として、この浄い地に立つことを許されたのだ。
 天の上に在るは極楽。そして地の底に在るは地獄。
 罪を犯した者たちがひしめき蠢く地の底には、この世の責苦がすべてあった。罪人の烙印を押されたものは皆、いつ終わるともしれない痛みに苦しみに責めら続けるのだ。
 地獄から天を見上げても、光に満ちた極楽の地は、眩しすぎてその姿を見ることはできない。けれど、極楽からは地獄の様子を伺うことはできた。
 極楽の地に在る、美しい白蓮の池。その湖面を覗き込むと、地獄の様子が伺うことができたのだ。

 ある清々しい朝のこと。その池のほとりで、かの人はひとりの男を救おうと試みた。
 極悪非道、悪鬼羅刹と呼ばれた男を。
 多くの血を浴びて腐肉を喰らいあがきもがき自分が生きるために生むことよりも壊すことばかりをしてきた、男を。
 あの亡者が蠢く地獄の底から、男が背負うに値する苦役の中から、男を救おうと、そう試みたのだ。

ーたったひとつ、「蜘蛛」を助けただけの功徳を理由に。

 その間は大きく隔たり、地獄にある者が一足飛びに極楽へ到ることは億に一つもないことだった。案の定、男の上へ垂らした蜘蛛の糸は男の欲により途中で途切れてしまった。

 途中で途切れてしまった白銀の糸をそっと手繰り寄せて、揺れる水面の向こう側で蠢く者たちに視線を落とす。赤く爛れた肉塊があちらこちらでうぞうぞともがいているように見える世界。痛みに苦しみに悲鳴を上げて救いを求める声が遠く離れ水面で隔たれたこの天上まで聞こえてくるような、そんな錯覚を覚える。
 赤い色彩に沈むその世界で、唯一つ、ぴくりとも動かない白が目に映る。あの白は、途切れてしまった蜘蛛の糸。男が掴んで離さなかった、男が独占し他のものが触れることを厭うた為、墜ちてしまった、蜘蛛の糸。
 あの男が掴んだ蜘蛛の糸は途切れてしまった。あの男はこの糸を掴み取ることはできなかった。
 そう意識をした瞬間、じわりとした何かが、かの人の胸元を中心に滲み広がった。
「どうなさいましたか?」
池のほとりで茫と立ち尽くすかの人に、天上の者が声をかけてきた。その優しい声に、かの人はゆるりと振り返った。しゃらん、とその首元を飾る白銀の首飾りが清かに鳴る。
「救うことが、できなかったのです」
そう目を伏せて応えたかの人の横に並び、天上の者もまた、池を覗き込んだ。先程まで微かにだが判別することのできた白銀の輝きは、しかし、じわりじわりと血の赤に侵食されていた。白銀の糸が汚れていく様子に、先ほど生じた感覚が痛みを伴い糸が侵食されると同じくして広がった。
「蜘蛛の糸を、こう、垂らしたのです。あの男をここへ引き上げるために。けれど、あの男は蜘蛛の糸を独り占めしようとしたのです。この糸は我の糸だ、そう言って」
そして蜘蛛の糸は切れてしまったのです。
 そう言葉にすると、得体の知れない感覚がどんどんと体中に広がっていった。息苦しいほどのその痛みに、悟った時に枯れてしまったはずの熱いものが、かの人の優しい眦からこぼれ落ちた。
 はたりはたりと白磁の頬を伝い美しくこぼれ落ちるその雫に、天上の者は静かに首を横に振った。
「あなたにも分かっているはず。泣くのはおよしなさい。あの男は愚かだったのです。あなたの御手を独り占めしようとしたのだから」
あなたが悲しむ必要などないのですよ。
 涙をこぼすかの人に、天上の者はそう言って慰めた。その言葉に、かの人は違う、と反発を感じた。
 これは、救えない者たちの性根を憐れに感じたのではない。あの男や地の底で蠢く者たちの愚かさを嘆いたわけでもない。救えなかったことを悲しく思っているわけでもない。
 たしかに助けられなかったことは悲しい。他者を思いやることのできない地獄の者たちの心根が憐れであり愚かだと目を伏せたくなる。
 けれど、この胸の内でじわりじわりと広がっていく感情は、それだけでは片付けられない何かだ。
 しゃらん、と首にかけた白銀の鎖が正常な空気を鈍く揺らした。その清い瞳を大きく見開かれる。顔を上げた勢いでぱたりぱたり、と大粒の雫がこぼれ落ち空に散る。熱が滲むよりも早く清冽に広がり内側からその身を焼く。その痛みに何か覚醒するような感覚が奔る。 
「あの男は、愚かだったと、そうおっしゃるのですか?」
かの人の剣呑な眼差しとその声色に、天上の者はかすかに眉根を寄せた。どうかしたのか?と問うように向けられたその眼差しに、けれど答えることなく、かの人は胸の内で生じた感情を抱え、目の前に立つ天上のものを睨めつけた。
「私の救いを、自分だけのものにしたいと願った、あの男の思いは、愚かだと、そう言うのですか?」
体中の細胞を灼くような感情を抱え、ともすれば叫び出したい衝動を押さえつけ、かの人は静かに言葉を吐いた。

 赤く膿んだ地の底、責め苦から逃れたい者たちがひしめき合う地獄の底。その中に伸ばされた救いの手である白銀のか細い蜘蛛の糸。それを男は独り占めしようとした。かの人の救いを自分だけのものにしようと、した。
「この糸は己の意図だ」
そう傲然と言い放ち天を見上げた、男の瞳。
 それは糸を独占し自分だけが天上へ逃れることを望むものの目ではなかった。
 この救いは自分だけのものだ。唯一つそれだけの感情を宿していた。
 数多の者に救いの手を差し伸べる存在に対し、傲慢にも、お前が救うのは唯一己だけだと、血に染まったその目が語っていた。
 だからこそ天意は男を救わず、蜘蛛の糸は切れてしまった。かの人の思いを裏切って。

「愚か、としか言い様がないでしょう。所詮、地の底に送られるだけのものだった。そういうことですよ」
冷たい炎を纏うかの人に対し、まるできかない子供を諭すように、天上の者はそう言った。諌めるようにそっと、かの人のたおやかな指に触れ、やわらかくその手をとった。天上の者の白い手はひやりと冷たく、まるで雪のように儚くかの人の手を包む。
「あなたの手は誰か一人のものではないのに」
かの人の手を傷つけることない柔らかな手が、そっと優しく撫でる。熱を奪うようなその冷たい指先はかの人の手を傷つけることはなく、また、かの人の手に強くすがることはない。
 
ーいつかのときのこと。ただ震え恐怖に引き攣るばかりだった私の手を強く握った、赤く血に染まったあの手は、まるで灼熱の炎のようだった。

 記憶に刻まれた皮膚の感覚がかの人の熱を上げる。はたりと血が上って朱に染まった頬を涙が伝い、首にかけている白銀の鎖を濡らす。昏い熱が胸の内で低く轟き、体を逆流する赤い色がきりきりと思考を締め付ける。
 これは、怒りだ。と、身を焦がす熱のありかにかの人はその指先を伸ばし、悟った。 
 それは、男が蜘蛛の糸を切ってしまったことに対しての怒り。
 そして、男の欲を愚かだと切り捨てた天の声に対しての、怒り。

「あの男だけを助けようとした、この気持ちもまた、愚かだと、そういうことですか?」
とめどなくこぼれ落ちてしまいそうな涙をこらえることなくはたはたと零しながら、かの人はそう言った。
「では、あの男が私の糸を独り占めしたいと、そう思ってくれたことを、私は喜んではいけないのですか?」
かの人の問いかけに、天上の者は哀れなものを見つめるようにその表情を翳らせた。
「あなたがそれを喜んでしまったら、救いを求める者たちは誰にも縋ることができなくなりますよ。あなたがただひとりだけを選んでしまったら、幾多の者たちが絶望を抱え滅びの中を進むことになりますよ」
あなたにも、分かっているはずです。そう言って天上の者はかの人のなめらかな頬を流れる涙を拭った。
 天上の者の言葉に、く、とかの人は唇をかんだ。鉄臭い血の味が口の中に広がる。
 救世を求めるものにすべからく手を伸ばす。それがかの人の存在理由だった。多くの人の上へ光を照らす為、かの人は徳を積み、天上の地に降り立ったのだ。
 ただひとりのために、多くのものを見捨てるなど、それこそ愚かの極みである。分かっていた。十分によく分かっていた。けれど。
「けれど。私は」
自分の涙を拭ってくれる白く淡い指先をはらい、怒りと涙で低くかすれた声でかの人は囁くように感情を吐露した。
「私は、嬉しかった」
あの男が、自分を独占しようとしたことを、悦んでしまったのだ。

 私は、あの男だけを助けたかった。
 悪鬼羅刹と罵られ血に濡れたあの男を、この天上へ、自分がいるこの場へ、連れてきたかった。
 あの男の上だけに蜘蛛の糸を垂らした。
 あの男を極楽へ掬い上げたいと望むのならば、どんなに些細なものだとしても他の罪人たちが行ってきた良いことを見つけ出し、全てのものの上に糸を垂らすべきだったのに。
 ただひとりのために蜘蛛の糸を垂らした時点で、罪は決まっていた。

 愚かなものを憐れむような眼差しを天上の者が向ける中で、かの人の首元を飾っていた白銀の首飾りが切れた。
 かしゃり、と乾いた音を立てて地に落ちたそれは、何故だか赤く染まっているようにも見えた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

天と地をつなぐイト~蜘蛛糸モノポリー~

わーってなりました。
そして書いてしまいました。

この原曲様には既に超有名な原作があるので、二次創作してはいけないだろ。と思ってはいたのですが、書いてしまいました。書いたらうpしたくなるのが人情というものですね。ううう。
二次とかなくていいだろって質の原曲様とPVですので、やっちまった感は半端ないです。
でも書いてて私は楽しかったです!!

こんなの原曲のイメージと違う!などなどあるかと思いますが、生ぬるい目で見ていただけたら幸いです。

原曲様
【sasakure.UK】蜘蛛糸モノポリー feat. 初音ミク【Music Video】
http://www.nicovideo.jp/watch/1366014863

閲覧数:252

投稿日:2013/08/14 23:39:29

文字数:4,016文字

カテゴリ:小説

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