女は木々の中を駆け抜ける。
深い林の中、さらに奥へ奥へ、奥へ。道を違うことは無い。迷わない指針を知っているから。
枝々の隙間を風のごとく通り過ぎる彼女の鋭い聴覚が、己以外の呼気を感じ取った。
「―――待て!!」
放たれた声に反射的に小太刀に手をかけ、背をかがめると同時に振り返る。
十歩程先に、背の高い男がいた。
彼女は素早く辺りの気配を窺う。仲間は連れていないようだ。逃げ切れぬ状況ではないが、この場で殺しておかねばどこまでも彼らは追ってくる。
意識を研ぎ澄まし隙を探ろうとして。
…すぐ男の奇妙さに気付いた。
男は武器を手にしてはいない。帯刀はしているが両手は身体の脇にある。刃を交えようという構えにすらなく、ただ木の傍に立ちこちらに厳しい眼差しを向けているだけだ。
何者かと、余計に警戒した。その様子を見て、男はゆっくりと口を開いた。
「危害は加えない。お前が私に危害を加えなければ。尋ねたいことがある。その手を下ろせ」
「………」
どこかで聞いたことのある声だ、と思いながら、無意識にじり、と足が後ずさる。
本能がこの男の裡を感じ取っていた。こうして語りかけられるだけでも油断ならない強さを感じる。威圧。だが従う選択肢は彼女にはない。
警戒を解かないことに痺れを切らしたのか、男が一歩足を進めた。
その瞬間、彼女は踵を返し脱兎のごとく駆け出した。
地の利はあった。鬱蒼と茂る林の中も、視界の利かない暗闇も、足場の悪い山道も、彼女にはたいした障害ではない。だからこれまでも追手を躱しきれたのだ。
地の利はあった、――はずだった。
しかし背後で一瞬の息使いを聞き咎め、はっと気付いた時には視界が反転していた。
大木の幹に身体を抑えつけられ、喉元には刃が横一文字にピタリと当てられている。
「く、…っ!」
「待てと言ったぞ。逃げるな」
自分を覆いつぶすほどの身の丈に威嚇され、間近で覗きこむ髪の色と同じ濃紺の瞳が、刃よりもよほど彼女を硬直させた。
殺気を感じない。それが余計に不可解で計り知れないではないか。
しばらくそのままで睨み合い――ふと、気付く。
…そうか、この男は「里」の者か。だから強くても自分には殺気をもたないのか。捕える為だけに使わされた忍び。そう思えば何もかも合点がいった。
そしてその瞬間、彼女に反撃の成算が立った。
―――ならば傷付けることはできまい。この“私”を。
決意は一瞬だった。袖の内側に潜ませた くない を両手に握る。男がそれに気付くと同時に喉元の刃を弾き、同時に男の脇腹目掛けて鋭い切っ先を刺しこんだ。この状況でここまで了然たる反撃が来るとは思っていなかったのか、男はわずかな隙を見せる。それを逃さず、男の体を肘ごと突き飛ばし、再び駆け出した。
直線ではなく、曲がり曲がり、速さでは追えぬように、敢えて複雑な森の中へと。
追ってくる足音は聞こえる。だが追い付いてはこない。
わざと距離を開けて追って来ているのだと気付いた瞬間、左手の甲に光の破片のような鋭い痛みが突き刺さり、思わずぐっと口唇を噛みしめた。
矢か、刃か、どちらにしろ急所を外している。大した痛みではない。
堪えて足を速めようとした矢先、不自然に足がもつれた。
「…っあ…!?」
枯葉の中に膝をつく。すぐにそれすらも困難になり、ドサリと横向けに倒れた。
手足が痺れている。どんなに神経を働かそうとしても身体は反応しない。手に刺さったのは毒矢だったか。確認しようにも首も腕も動かない。ガサリと草木を掻き分ける音がして、追い詰められたことを悟る。
なんという失態かと己の油断を呪った。里の者ではなかったのか。ならばやはり、…敵。
足音が、ゆっくりと歩を進めてくる。目線だけを上にあげ、睨みつけた。
近くで見ると、男は白い括袴に紅の直垂、その上に紫の筒袖衣を羽織り、黒く長い布を首にぐるりと巻いていて、まさに忍びかもしくは修験者に近い出で立ちをしていた。
「――……なに、もの」
舌さえも思うように動かず、なんとかそれだけを絞り出す。
目の前まで来てきょとんと瞠目し、男は口元に笑みを浮かべながら膝を曲げ、屈みこんだ。
「話せるのか」
無礼な言葉に思わず目つきが鋭くなる。
「あまりに話が通じないから、妖かしかと思ったぞ。待てと言えど逃げるなと言えど悉く。…万が一と思って用意していたが、まさか本当に使うことになるとはな」
懐から小さな短刀を出して見せる。長さ三寸ほどの、峰も鎬もない真っ直ぐで細い鋼。殺傷能力は低そうだが、毒仕込みならばこれくらい身軽な方が的を得やすいだろう。
「先に詫びよう、手荒な真似をしてすまなかった。これ以上の危害を加えるつもりはない。痺れは四半も経てば収まる」
穏やかな声音は相手の心を容易く懐柔できそうな柔和さを持っていたが、彼女は警戒をゆるめなかった。罠を仕掛けるのにこれから危害を加えると宣言する敵がいるものか。
その心情が嫌というほど伝わったのだろう。男は諦めたように息をつき、
「…信用しろとは言わないが、まだ逃げるつもりなら枷はさせてもらうぞ」
そう言って、倒れ伏した彼女を抱き上げ近くの木の根元に座らせると、取り出した紐で、身体の前にもってきた両手首を縛った。
「…傷を負わせたな」
彼女の左手の甲で、先ほど掠めた短刀の痕が血を流していた。掠めただけとは言え切れ味は鋭く、薄い肉を深々と抉り取っていて痛々しい。
彼女は男をじっと見つめる。それしかできなかったから、幾ばくかでも相手の情報を得ようと目を凝らした。
――――ひどく清廉とした男だった。そして謎めいていた。まさに濃紺。黒に近い藍色の瞳の奥に何が潜んでいるのかまるで窺い知れない。
彼は血を拭きとると薬を塗り込み布で手をくるみ、当座の処置を施した。その一挙一動は流れるように淀みがなく優雅で、追手となるような賤しい者には見えなかった。
その頃には本当に全身の痺れがほどけてきていて、縛られた手首の先で指が思い通りに動くことに気付く。だがその上から彼の手が軽く抑えつけているので、どちらにしろ自由は効かない。
「そろそろ話せるか?」
彼女は不審な目つきはそのままに、わずかに頷いた。
「先ほどの問い、そのまま返そう。お前は何者だ?」
「……」
目を見張る。なんだ、その質問は。この男、私の素性を知らずに追っていたのか?
「答えるまではこのままだ。この状況を見れば逆らっても益はないとわかるはずだぞ。私は答えが知りたいだけだ」
「……なぜ知りたいの」
はじめてまともに帰ってきた女の声に、彼は一瞬驚いたようだった。
「なぜ私を知っているの」
捕える用意までしていたなら、偶然ではあるまい。以前から彼は自分を追っていたのだ。追う者は、皆、敵。
その意を悟り、彼はふむ、と一人ごちた。
「…お前と違い、こちらには素性を伏せる理由はない。無駄な問答だな」
「……」
「私はこの地一帯を治める麓の村の長だ。この森も山も全て私の領地。近頃野盗とおぼしき者共が私の山を跋扈しているとの報告を受け私自らが偵察に出た。もっともその怪しき連中、息絶えてそこここに転がっていることが大方だったわけだが」
女の目つきが僅かに鋭さを持つ。
「そしてその屍の全て、よく鍛錬を積んだ者の手で一息に殺されていた。野盗と見えた輩も、物盗りというよりは間者なのではないかという印象を受けた。己の為ではなく何か主なる者に仕え、その命の為に動く連中」
「……」
「どちらにしろ物騒だ。私の地に無断で入り込むことは罷りならない。そのようなわけで、連中がこれ以上のさばる前にその“原因”の方に事情を伺おうと決めた。そうして、お前を捕えた」
男は、探る様にじっと彼女を見つめた。
険しい目つきのままそれを見返し、しかし彼女も一応の得心を得た。
この広大な森の領主だったか。ならばこの誰とも似つかない雰囲気もわかるというもの。治める者なら責任もある、手段を選ばず自分を捕えたのも仕方がない。
………だが。
「…偽りはないと、信じます」
低く疲れたような声で、彼女は言った。
「―――ですが、私の正体を明かすわけにはいきません」
男が眉を顰める。
「貴方の所有地に入り込み勝手に穢したことは心より詫びます。しかし、貴方の言い分はそれで終わりではないでしょう。そこから更に、『事情を察したなら血生臭いことはここではなく余所でやってくれ』と続くのでしょう?」
「…」
「それは私には聞けぬ話しなのです。望んでこの地にいるわけではない。しかし私に時間は残されていません。私はこの山を越え、野を巡り橋を渡り、屍を越えて進まねばならないのです」
「何故だ」
彼女は沈黙し、その問いには答えなかった。
「…私がこのまま貴方の地を侵し続ければ、どちらにしろ貴方は私を捕えようとする。私たちはどう転んでも敵同士です。だから、私の素性も目的も、晒しても意味がない」
「…それでは、どうあっても私から逃げるつもりだと?」
「すでに今の私は貴方に捕えられています。それでも私は、逃げ出せるまで足掻きます」
尊い覚悟を伴った、強靭な瞳の強さ。
男はそれに射抜かれ、引き寄せられるように彼女の頬に手の平を触れた。
びくりと伝わる反応。
男はこれから言わんとしている台詞に、自身で驚く。しかし止める気はなかった。ちり、と胸が苛立つ。言及してやらねば気が済まなかった。
「…随分と侮られたものだな」
「貴方を貶めるつもりは」
「事情を説明すれば、俺が協力するかもしれないと何故思わない?」
「…え…」
思わぬ言葉に彼女は目を見開いた。
その時、草木がざわりと鳴いた。
不穏に空気が変わったのを二人同時に感じ取り、ハッと周囲を見回す。
「―――追手が…」
「…三…四…五人か。ここはまずい、袋小路だ」
男は早口に呟きながら、彼女の手首の縄を切り落とした。驚いて見上げる。
「立てるか。少しふらつくかもしれないが堪えてくれ」
支える手におずおずと縋りながら、彼女は立ち上がる。少し膝と足裏に違和感があったが、なんとか両足で踏ん張って立つ。
「戦えるか?」
男が屈み腰元に手を当てるのを見て口唇を噛んだ。
「…なぜ貴方まで」
「なぜ?」
「追われているのは私よ。貴方は関係ない」
わざと撥ね付けて言い放つと、彼女を背後に隠すように立つ男の瞳が、肩越しに刺す強さで彼女を振り向いた。
「―――見くびられたままでは捨て置けない」
見縊ってなどいない。他人を巻き込みたくはない。馬鹿なことは言わないで、逃げて。
様々な思いが胸の内を刹那に駆け抜けたが、言い返す暇は無かった。
「…ッ」
四方から葉を踏みしめて追手が忍び寄り、二人は背中合わせで身を強張らせた。
賊を雇ったか、と漆黒に身を包んだ男が覆面の中で呟く。
こんな秀麗な賊がいるものか、と心の中で毒づいた。
愚かな連中。何も知らずに己の利をもぎ取ることにばかり夢中なうつけ達。お前たちには何も手に入れることなどできはしない。例え私を捕えたとて、決して何も得られないというのに。
「またも我が同胞を討ったな。虫も殺せぬ顔をしてよくも平然と殺生が出来るものだ。そのように穢れた身では、本来の使命も全うできぬであろうに」
じり、と、一歩、また一歩、彼らは包囲を狭めてくる。
余計な御世話だ。そう思うのなら何故私を捕えたがるのだ。墓穴を掘っている。
カチ、と、背中を合わせた彼の柄の音を聞いた。最初の一太刀を躱せなければ終わり、躱せれば…。
「一体、何が目的でこのように困難な道中を行かれるのか、全く解せぬ。そろそろ御殿に帰られてはどうかな。その道中であれば、我らが喜んで護衛を引き受けようぞ」
くだらない、くだらない、くだらない!巻き起こる下卑た笑い声に怒りがこみ上げ、今すぐにでも飛びかかりたい衝動を、背中の波動がぐっと抑えた。乗せられるな、大丈夫だ、と声なくして伝わるおもいが、こんな状況にあるにも関わらず心地よかった。
キン、と張り詰める空気の糸。
「…どこまで逃げ切れると思っている?いつまでこんな野蛮な真似を続けるおつもりだ?
―――堕ちたものだな、神の嫁、紅姫ともあろう者がぁっ!!!」
「甘いッッ!!!!」
敵の刀が鞘を滑る音を聞いた瞬間に、二人は高く飛び上がる。
怒号が交差した。
濃紺の彼がいたはずの場所に空を切った敵の刃が円を描き切る前に、その敵の目にくないが突き刺さる。同時に彼が抜いた刀が背後に襲いかかった敵を振り向きざまに切り捨てた。
苦悶の声をあとに、二人は素早く左右に散開した。
「男は殺せ!姫は手足の一本や二本切ってかまわん!逃がすな!!」
首領らしい男が残った仲間に怒鳴り散らす。
しかしその頃には、男の姿も女の気配もいずこかへと消え去り、残るは揺れる梢の音だけだった。
【カイメイ】 この鈴音、摘まれて開く命なら
*前のバージョンで進みます。全4Pです*
仕事してP様の『大輪の花』http://www.nicovideo.jp/watch/sm15901451を元にしたカイメイ妄想話です。本家様にはカイメイどころか青い人の影すらありませんこと、どうぞご留意下さいませ
この大好きな曲について考え出すと妄想が止まりませんでした。
はじめ兄さんはストーリーテラー的な役割で、と思っていたのにふと気付くとカイメイタグが!時雨さん隙あらばグイグイ来ました、さすがです。少しは自重しろ
長すぎて続き物?に…orz そのうち続きも出来上がる所存です。二回で終わるかなぁ…ぬおぉー
世界観等いい感じに適当&オリジナル設定満☆開。要所要所をかいつまんで書いている感じなので、なんとなく急ぎ足。
愛だけは籠もっておりますが細部を突っ込まれると泣きま、す…。
でも和年長楽しくて幸せだひゃあー
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