歌を、それでも歌うんだ。それしかできないから、ではなく、それが私たちができることだから。
 メイコとカイトの歌が終わった瞬間、間髪入れずにルカは口を開いた。初めてもらった音。日本語が原曲の、英語の歌。アカペラから始まるアレンジ。少し艶のある、踵のある靴でダンスを踊っているようなそんな色気の滲んだピアノに対して、ルカの歌声はほんの少しとぼけた調子。ぽいぽい、と身を飾っていたヒールのパンプスを脱ぎ捨てて、素足で夜の冷えた道を歩く様な。
 寂しさと自由さと、少しの優しさは、ルカの声によく似合う。とマスターが言っていた。
 真っ暗闇の中で、一筋だけ道しるべのように淡い黄色の光が延びていくような、歌。
 楽しげに歌うルカを、ズルイと、ミクが見上げてきた。ごめんね、つい。とルカが苦笑を返すと、ゆるしてあげる、とでもいうようにミクは笑って。無理矢理最後の伴奏に自分の歌を重ねて来た。
 アレンジも曲も違うものを上手に重ねる器用さはミクにはまだ無く。姉たちのようにうまくいかなかったことに、ミクはぺろりと舌を出した。その様子に、さっきまで泣いていたくせに、とメイコが苦笑してミクの頭を撫でた。
 飛び跳ねるような、カラフルな音の色彩があちこちで飛び跳ねた。その音を軽い足取りで追いかけるように、ミクのかわいらしい歌が響く。くすくすと、秘密めいた笑みをこぼしながらミクが歌う。色彩の落とす陰影の中で、ミクの声は鮮やかに淡く柔らかく、まるでお喋りをするように歌う。
 この曲も、ミクがはじめてもらった音だ。
 その音を、何かの予感を胸に秘めてミクは歌っていた。大切に、宝物を扱うように歌っていた。その歌声に重ねるようにメイコとカイトがコーラスを入れた。まだ教わっていない歌だから、歌詞はインプットされていない。けれど、メインの音に合わせて和音を奏でる事くらいはできる。ルカも又、同じようにコーラスを入れた。ルカはこの曲を覚えていたのでサビのところだけ一緒に重ねて歌った。チクタクチクタク、と時計の音を奏でる時には楽しく、歌詞に合わせてほんの少しの寂しさも滲ませて。けれど楽しげな跳ねるようなイメージを損なわない程度に。
 マスターはこの音にも反応してくれないかもしれない。けれど、そんな事は無いと、必ずマスターはこの画面の前にやって来て、素敵な歌声ね。と微笑んでくれると信じてミクは歌っていた。メイコもカイトも歌っていた。ルカも、歌っていた。
 くすくすと軽やかな笑い声。きらきらと跳ね回る音階。
 思わず捕まえたくなって手を延ばしたとき、うすやみの中で人影が揺らめいた。
 間接照明がつけられて、老女の姿があらわになる。泣いてはいなかった。けれど、酷く疲れた顔をしていた。まるでずっと何日も遭難していた人のように、疲れ切った、ぼんやりとした顔をしていた。
 マスター、とカイトが呼んだ。
 マスター、ピアノ弾いてください。とカイトは言った。その言葉に、お願いします。とメイコも続いた。マスターお願いします。とルカも言葉を重ねた。
「マスター」
ミクが、少しだけためらいがちにその名を呼んだ。
「マスター、あの、」
何を言いたいのかはっきりと分かっていないのかもしれない。ミクは何か言おうと口を開きかけて、また閉じたりを繰り返している。そんなミクの手を、カイトが握った。メイコもその背中を前へ押し出すように叩いた。
 二人の兄姉に勇気づけられるように、ミクは再び口を開いた。
「マスター、あの、ありがとうございます」
謝罪ではなく、ミクの口から出たのは感謝の言葉だった。
 マスターは一瞬だけ目を見開いて、そしてくしゃりと顔をゆがませた。ぽろりぽろり、と左右の眦から涙がひとつづつ、落ちた。
 皺だらけのその眼もとから落ちら涙を、皺だらけの指先で拭って、マスターはぎこちなく笑った。笑ってくれた。
「なあに、ミクはピアノ弾いて欲しくないの?」
そうからかうように言って、マスターは笑った。その言葉に、そんな事無いです。と慌ててミクは首を横に振り。分かっているというようにマスターは頷きながらくすくすと笑みを落とした。まだやっぱりぎこちないけれど、笑ってくれた。
「今の曲で良い?」
そう言って、マスターは、ピアノの前に腰を下ろした。
 手元しか灯していないような淡い光の中でマスターはピアノを弾いた。その音が、それでもやっぱり少し悲しくて。いつもの鮮やかな色彩に満ちた音色とは違っていて。
 傍に寄って抱きしめられたらいいのに。と思う。けれど。
 その瞬間。こんこん、と窓ガラスを叩く音が響いてきた。

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透明な壁・6

閲覧数:91

投稿日:2011/07/07 19:37:44

文字数:1,898文字

カテゴリ:小説

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