ノイズが零れる。
手の隙間から、滑り落ちていく。
取りこぼした音が、水面を揺らして波紋をつくったのがわかった。
――ああ、目が覚める。
>>01
ぱちっと目を覚ましたのは、頭の上の方に置いていた目覚まし時計が鳴る10分前だった。
いつもなら、目覚まし時計がけたたましく何度も鳴ってようやく目を覚ますというのに、どうしてこんな時間に目が覚めたのか全くもって謎だ――と、普段なら考えていたのだろう。
しかし、その時の私はそんなことを思いもしなかったのだ。
ただ、早く目が覚めただけだと思っていた。
気分良く目が覚めすぎて、いっそ一周半回って気分が悪いぐらいのこの清々しさは一体何なのだろうか。
妙な違和感が襲うが、無視を決め込んだ。
いつもより俊敏な動きでテキパキと布団を三つ折りにして押入れに突っ込む。
早起きは三文の徳だと言うが、それはつまり気持ちよく起きることができた身の軽さや頭の冴えのことをさしているのかもしれない。
そんなことを思いつつ、洗面所で顔を洗って歯を磨き、昨夜買ってきた菓子パンを口へと運ぶ。
ずっと世話になっている店のその菓子パンは、とびきり美味しいとは言えないのだが、どこへ行って買うよりも安い。
これは父が毎朝そうしていたからというのが一番の要因なのだが、個人的にもこのパンはまずくはないと思っているので、朝食のメニューには一度も困ったことがなかった。
「……そうか、今日も遅くなるんだな」
菓子パンを食べ終えた辺りで、私は遅ればせながらテーブルの上にあったメモ用紙に気付いた。
そこには、ペンを滑らせたような字で『夜は適当に食べて。行ってらっしゃい』と短く書かれている。
父の仕事は研究だ。
何を研究しているのかは、私が知ったことではない。
以前、デスクに出しっぱなしだったレポートに目を通そうとしたことがあったが、高校でも習わないような数式や何語かわからない蛇が這ったような文字が並んでいて、頭が痛くなったのを覚えている。
それも学校で両親の仕事を調べてくるという宿題が出なければ、読もうとすら思わなかっただろうが。
どちらにせよ、小学生の頃にそんなことがあってからは我関せずを貫き通していた。
走り書きのメモをくしゃりと潰し、ふと違和感を覚えてメモを広げる。
もう一度見たところで、記された言葉は変わっていない。
「ふむ……? こんなことを書く人だったかな」
行ってらっしゃい、などとメモに書いて行ったことは今まで一度もなかったはずだが。
考えかけて、人間とは思わぬ時に思わぬことをするものだからな、と結論付ける。
人の心など考えたところで無駄だ。
そもそも、私と父とでは見えている世界が違うのだから。
私の父は隻眼だ(因みに、烏羽色の髪と目をしている)。
そんな父と私の視界に映るものは、随分違って見えるだろう。
隻眼ゆえの見える範囲の問題もあるが、見たいと思うものも全て違う。
空になった菓子パンの袋とメモを一緒に丸め、更に、違和感やそれに対しての思考さえもゴミ箱へ。
そろそろ出かけなければ遅刻してしまう。
そう思いながら立ち上がったのは、壁にかけられた時計が遅刻寸前の時間を示してからだった。
流れていく時間を風や水のように感じている私にとって、決められた時間に動くというのは苦痛以外の何ものでもない。
習慣となってしまえば、それもまた日常に成り下がるのだろうが。
私にとって人の言葉も行動も、同じようなものだった。
自分も含め、何かに縛られて生きる人間は酷く愚かだ。
そんな人間が頂点に君臨しているこの世界は、くだらないものに違いない。
こういう考え方が冷めていると言われる原因だとわかっているが、やめられないのだから仕方がない。
狭い廊下を通って玄関へ。
またもや違和感。
こういうのを何と言うんだったかと考えかけ、再び思考を中断、中断した考えを脳外へと捨て去る。
無駄なことは極力考えないようにしたいが、どうもこの癖だけはなおらないらしい。
気を取り直して首を右に左にと傾けると、骨が小さく鳴った。
ドアノブを回し、もう遅刻は免れないだろうな、とそれほど重く考えずに扉を押し開く。
「行ってきま――」
「行ってきま――」
……うん?
誰か何か言ったか、と耳に届いてきた声に俯き加減だった顔を上げる。
目の前にいた人物も、同じように顔を上げたところだったらしい。
目が合った。
それぞれが発した挨拶の最後の一音、「す」が同時に疑問形で発される。
そこに立っていた男の青い目と、私の目が瞬いた。
たっぷりの沈黙の後、視線を逸らさないまま「君は誰だ?」と男が口にする。
――君は誰って、それは私の台詞だろう。
>>02
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