「パパなんて、大嫌い!」
あの日幼い格好をしていた私は、大事な人形を抱えたまま家を飛び出していった。
それから、海の近くにある家から波止場の公園まで走っていって、夜遅く灯りのある場所に座っては泣き崩れていた。
眼の前は、青く澄んだ広い海。
私なんか平気で受け入れてくれる抱擁力を強く感じながら、港町の小さな公園のベンチで、夜空を浮かぶ満月に惹かれるように眺めていた。
「キレイ...」
しばらくしても私の事をちっとも迎えに来てくれないのに少し腹が立って、子供心に夜の風景を恐れながらも反発するように辺りを行ったり来たりして歩き回っていた。
そして、波と触れ合う所まで来ては、ずっと遠い地平線をぼんやり眺めていると、つい抱いていたはずの大切な人形を誤って海に落としてしまったのだ。
「あっ!」
次第にそれが私から離れていくと、気付いた時には私もそうなっていた。
「待って、待ってよ!」
まるで泳げない私を嘲笑うように、人形は遠ざかって行った。
「待ってー!」
灯りのない海の果てに、私を待ち続けているとしたら。
「おーい、大丈夫かー」
涙と何か冷たいものに溺れてしまった私は、聞き覚えのあるその声に身を任せながら、そのまま意識を失ってしまった。
次の日、目覚めた病室にはパパとママが心配そうに私を見守っていた。
「バカ、心配したじゃない!」
ママがそう言うと私はそっぽ向いて、パパとの視線を背けた。
「.....」
溺れていた私を誰が助けてくれたのか、少し気にしながら。
「あ、あの子は!」
私がママの方を見ると首を横に振るので、仕方なくパパの顔を見たが何の反応をも示さなかった。
「そんな...」
私は自分の罪を改めて感じて、哀れみの涙を流した。それが例え人形であっても大事なものに変わりはない。その時は実際、両親以上に大切な友達だったから。
「また新しいのを買ってあげるから、ね?」
「…要らない」
大切なものに新しいとか古いとかは存在しない。私からいなくなったという事は、この世からいなくなったのと同じ事だから。
だからこうして今になっても忘れられない思い出の一つとして残っていたのだった。
やがて私は大人になり、平凡な日々を送っていた。
時折感じる幸せに捕らわれてか、思い出というものにあまり縛られなくなっていた。しかしあの時の事を一度と忘れた事はなかった。むしろ、鮮明にあの子の顔を思い浮かべる事が出来るのが不思議なくらいだった。
その日の夕方、大好きな彼と買い物に行く約束をしていた。私が玄関の前で待っていると遅れる事なく彼は現れて、いつものような笑顔で私を魅了した。
二人して歩いて近くの商店街まで行くのだが、その途中で幼稚園帽を被った子供と遭遇すると私は何故か、あの時の衝撃に襲われていた。何故なら、あの時のあの子がまるで生き返ったかのような瓜二つだったからだ。
「どうしたの?」
隣にいる彼がそう言うと、私は自然な態度でその子に質問した。
「ねえ、お名前は?」
「…」
その子は拒んでいるのか、何も言わずに背を向けて歩いて行った。
「ちょっと待って、何処行くの?」
遠ざかるその子を追いかけて、私は震えた身体を抑えようとした。
「…」
一言も言葉を発さないその子は、真っ直ぐと海の方へと歩いていくのだ。私は無我夢中でその子の後を追って行った。
「どうしたんだよ!美雪?」
私が彼を振り切ると、いつしか私はあの頃の私へと姿を変えていた。足元をフラつかせながらも波止場に着くと、その子は突然振り返ってすぐ、私に悲しい眼をして涙を潤わせた。
「…」
私もまた振り返って彼に頷くと、夕日は一向に沈んでいくばかり。
しばらく立ち止まっていたその子は突然走り出すと、目の前に広がる海に飛び込むように勢いよく落ちて行った。何処か死相に満ちていたその子を助けようと私はあの頃の光景を重ねながら、その子の後を追って飛び込んでいった。もう誰も死なせはしない、そう大人染みた心で。
「ばか!」
彼も二人につられて海に飛び込んでいった。しかし、死に急ぐ人を助けるのはとても困難で、追いかけても追いつかない僅かな時間の中で、私の眼の前からその子は消えて行った。自ら進んで沈んで行く哀れな姿を大人になった今も、何も出来ずに見届ける事しか出来なかったなんて。
「どうしてなのよ!どうして...」
地平線と並んだ小さな黄色い帽子は、私がようやく追いつくその頃まで静かに漂っていた。
「…夜になっても、満月と同じ格好をしているんだね」
って、そんな子供心なんてどうだっていいのに。
「どうしたんだよ、一体!」
彼が私に追いつくと、威嚇するようにそう言い放った。
「ダメだよ、死のうとしてるんだもん。だって、死のうとしてるんだもん!」
私もあの子同様そのまま海に呑まれたいと思った。でも、今の私には彼という生きがいがある。その間はどうしても死ぬ事が出来ない。幸せに捕らわれてか怖いと感じるから、そう感じてしまうから。
冷えた身体を温めようと沖から上がり、そのまま遠い満月の灯りに眼を奪われていた。彼と寄り添う向こうでは、今でも黄色いものが漂っている事だろう。
「何も出来なかったなんて...」
「人間失格だね、身体中震えてばっかりで」
やがて、雨までも降り注いだ。
きっと何処かの家の窓の側には、雨の打ちつける窓の方を眺めている事だろう。私が昔にそうだったように、私が大切にしていたあの子も、もしかたら私の事を大切に思ってくれていたのかもしれない。
私からあえて離れる事で、一人で生きていく勇ましさを教えたかったとしても、どうして二度もなのか分からないまま。どうして海の中なのかも分からないままで。
いずれにしても、二度も助けてあげられなかった事が心の傷として遺ったまま、それだけがどうしても拭えずにいた。
「…美雪、これ」
「!」
そこにはいるはずのない、父の姿があった。
「パパ…?」
父が私に渡そうとしていたそれが、あの頃のそれなのかどうかよりも、父の若かりし姿に首を振る事しか出来なかった。
「私、どうかしちゃってるのかな?目の前にいるはずのないパパが見えるの…」
「美雪?」
そばにいる彼が私に気遣って優しく声をかけてくれるけれど、どうやら彼には父の姿は見えないらしい。
「ほら、美雪。これ、お前んだろ」
父から差し出された大切なあの子をどうして今になって私に渡してくれたのか、理解出来るはずもなかった。
「幻覚を見てしまうほど、お前はずっとあの日以来苦しんでいたんだな。お前の姿を見つけて声をかけようとしたら、お前は何かに向かって走り出すもんだからその後を追ってきたら、ここに辿り着いたんだ。あの日と同じように、お前はまた海に投げ出されていたな」
「…何を言ってるの、パパ?私はただ小さい女の子を助けたくて…」
「小さい、女の子?」
そばにいる彼は私にそう尋ねた。
「急にさ、美雪が突然何かを叫びながら海に向かって走り出すもんだから」
「…謙吾は、女の子の姿を見てないの?」
「女の子?」
彼は首を降ると、地面に腰をおろして一度ため息をついた。
「どうかしてるって、美雪は」
「…でもパパ?どうして、これを?わざわざ何処かで買ってきてくれたの?」
父は人形の足裏を指を差すと、私もまたそれにつられた。
「みゆきって、お前の字でちゃんと書いてあるだろ?お前が昔、海に飛び込んで意識を失っている時に内緒で回収していたんだ。お前に返そうかとも思ったんだが、ママがな…過剰に溺愛するその人形をお前から遠ざけないと成長の足枷になるから、とな」
「そんな…」
私はママの気遣いを恨むように、その場に泣き崩れてしまった。
「今のお前を様子を見て、やっぱり私たちが間違っていたんだと深く反省している。今さらで申し訳ないのだが、どうか受け取ってほしい」
私はただ、幻覚を見ていた事が信じられなかった。今いる父の状況もそうである事から、私は実際どうかしてしまっているのかもしれない。
「ねえ、パパは…私たちの前からどうしていなくなっちゃったの?」
「その原因でもあったんだ。お前にずっと隠してきたものがきっかけで、ママと日々衝突してしまっていた。こうしてお前に早く渡してあげていれば、こんな事になっていなかったのかもしれないな」
「どうして…」
やがて、父の姿は見えなくなってしまった。
「なあ、美雪?さっきからお前、何ぶつぶつ言ってたんだ?」
「パパとね、仲直りしてたんだ。この子の事でね…」
「この子?」
私が抱えているこの人形までも、彼には見えていないらしい。
「あ、ううん。何でもないんだ、何でもないの。気にしないで」
やがて。
涙も雨も、私の辺りから次第に見えなくなっていった。
「…もう、帰ろっか?」
「ああ」
海辺を彼と二人、静かに手を繋いで歩いていくと、空からゆっくりと舞い降りてきた一枚の扉のノブに私がそっと手をとると、彼も私も何も動じる事なく不思議にも思う事なく、その中に吸い込まれるように入っていった。
「…どうだった、リカ?結局あの子は無事だったの?」
「ええ、美雪という人間の意識の中に潜り込んで、何とか無事に取り戻せたわ」
「良かったわね。これで私たちの仲間は一人も欠ける事なく、また皆一緒に仲良くいられるのね?」
私の隣にいてくれたジェフもまた、美雪の彼の意識の中に潜り込んでくれていた。
「オレたち人形もさ、以前に比べると住みにくくなったよな?」
「ほら、もう済んだ事じゃない。私たちも元の立ち位置に戻りましょ?」
ジェニーはそう言うと、雑貨の並ぶ古びたショーウィンドウの中に戻っていった。
「ほら、主人が帰ってくるわよ。皆動いちゃダメよ?」
「分かってるわよ、万が一誰かに買われる事があっても、ここまで何とか逃げ戻るだけの事よ」
そうブライスたちは続けると、ピタリと動かなくなってしまった。
「次は、誰の番かしらね?」
主人が店内の灯りを消すと、いつも通り二階に上がっていってしまった。
「人間に飼われるくらいなら、このまま主人に捨てられた方がましだものね」
私は皆にそう言うと、おやすみという挨拶の後に、人形としての一日を無事に終えた。
「…ほら、ママ見て?ここに可愛いお人形さんがいるの!」
私がいつの日か。
もし、ここからいなくなってしまっても。
「ねえ、パパったら。買って、買ってよお」
私の代わりなんて。
どうせ、この世にたくさんいるのだから。
「ねえったら、一生のお願いだから!」
私の意志なんて、些細な願いなんて。
生まれて一度も、叶うはずないのだから。
「あのね、お人形さんは玩具じゃないのよ。玩具みたいに動かないけど、ほら見て、笑ってるでしょ?私たちと同じ表情があるって事は、私たちが見えない所でちゃんと生きてるんだよ?だから買わないの。お人形さんだって皆と離れ離れだと可哀想でしょ、分かった?」
ショーウィンドウの中で、私はその母親の顔を見ているとつい嬉しくなって、流れないはずの涙がこぼれそうにと、ふと思ってしまった。
「…うん、分かった」
「じゃあ、行こう。分かったな?美鈴。ほら、美雪も行くぞ?」
「え、あ、うん。この人形、私昔よく遊んだ気がするなあ…」
「じゃあ美鈴、オムライス食べたい!」
私は感謝のあまり、その母親にどうしても手を振りたくて仕方なかった。
あなただけは、私たち人形の事を一生懸命に愛してくれたから。
「…じゃあね、お人形さん」
まだこの世の中に、希望があるのなら。
私はいつまでも人形でありたいと思った。
誰かに少しでも愛される事があるのなら。
その時は私も、愛してみようと思うから。
人形だからと、安易に見下さない。
そんな優しい人間もいるのだと、信じて。
「私と遊んでくれて、本当にありがとね」
私への宝物として、ね。
心というショーウィンドウの中にさ。
ずっとずっと、大切にしまってあるから。
「ううん、こちらこそ」
私は、涙の出ない人形だけど。
誰よりもずっと、嬉しくも悲しくもあるから。
そして、明日を迎える頃には。
ショーウィンドウに手を振る、私の姿がそこにあった。
「今日から、よろしくね」
だから私は、もう一度だけね。
キミに愛されたいと、切に願ったんだ。
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