閉じ込められてから、何日が過ぎたんだろう。毎日がほとんど同じ様子で過ぎて行ったので、わたしはだんだん、時間の感覚がわからなくなりつつあった。この部屋には、時計はあってもカレンダーは無いし。
 わかったところで、意味はないのかな……。わたし、もしかしたら、もうここから出られないかもしれないんだ。こんなことを考えるのはよくないんだろうけど、どうしても頭に浮かんでしまう。
 暗い気持ちで、わたしはため息をついた。時計を見る。部屋の明かりは消してあるけど、小さな常夜灯をつけているから、真っ暗ではないのだ。
 ……もう十一時を過ぎたのか。お風呂には入ったし、寝巻きに着替えてもいるんだけど、眠れない。わたしはベッドに横になって、ただ、無為に時間を過ごしていた。
 その時、窓の方から音がした。……風? ううん、風というより、何かが落ちたみたいな音だった。何だろう。
 わたしはベッドから身体を起こし、窓を見た。そして、びっくりしてそこに固まった。
 何故ならそこには……レン君が、いたから。


「レン君……」
 驚きすぎると、人は却って何もできなくなってしまうものらしい。わたしは、バルコニーに立つレン君を見つめたまま、微動だにできなかった。
 レン君がバルコニーの窓を開けた。……あ、鍵、かけるのを忘れていたんだわ。そのまま、中に入ってくる。わたしはレン君をみつめたまま、まだ動けずにいた。
「……リン」
 レン君がわたしの名を呼んで、こっちに近寄ってきた。もしかして、これは夢なんだろうか。あまりにもレン君に会いたいって思ったから、幻を見てしまっているんだろうか。
 レン君が、すぐ近くまで来た。わたしは、レン君を見つめたまま、つぶやいた。
「これは……夢?」
 夢や幻なら、どうか覚めないでいてほしい。
 そして次の瞬間、わたしはレン君に抱きしめられていた。温かくて、力強い腕。馴染みのある感触。
「会いたかった……!」
 耳元で聞こえる声。間違いない、レン君の声だ。レン君の声を、聞き間違えたりなんかしない。
 夢じゃ、ないんだ……。本当に、レン君がここにいるんだ。わたしは、力いっぱいレン君にしがみついた。
「わたしも……わたしも会いたかった!」
 レン君の手が、あやすようにわたしの髪を何度か撫でてくれた。その感触が気持ちいい。わたしは身体の力を抜いて瞳を閉じ、レン君の身体に自分の身体を預けた。レン君……大好き。
 レン君が少し身体を離して、わたしの肩に手が置かれた。そのまま軽く力が加わって……わたしはベッドの上に仰向けに倒れた。
「あ……」
 瞳を開けると、わたしの上にのしかかるようにしているレン君の顔が見えた。……なんだか、少し困っているみたい。
「えーと……」
 レン君の手が、わたしの頬に触れた。それから、首筋をすいっと撫でていく。くすぐったくて、少し身体をすくめてしまう。でも、くすぐったいだけじゃなくて、もっと痺れるような、よくわからない感触もある。
 そう……あの時と、同じだ。前に、レン君の部屋で、首筋にキスされた時。あの時と同じように、鼓動が早くなって、身体が熱くなってきている。
 わたしは一つ大きく息を吐くと、レン君に笑いかけた。
「レン君……大好きよ」
 わたしの言葉を聞いたレン君は、少し考えるような表情になった。それから、わたしの腕をつかんで、わたしを起こした。
「……レン君?」
「リン、大事な話があるんだ」
 レン君の声は、とても真面目だった。大事な話? ……なんだか、嫌な予感がする。わたしは思わず自分の肩を抱いた。
「俺、そのためにここに来たんだよ」
「う、うん……レン君、ちょっと待って。もう少し明るくするね」
 わたしは、ベッドの脇のスタンドの紐を引っ張った。オレンジ色のほのかな明かりが点る。やっと会えたんだもの。レン君の顔を、もっとはっきり見たかった。
 明かりを点けてからレン君の方を見ると、何だか妙な表情をしてわたしの方を見ていた。……どうしたんだろう。わたし、何かした? 考えてみたけど、思い当たることがない。
「……レン君、どうかしたの?」
 訊いてみると、レン君は頬を赤らめて視線を逸らした。こっそり忍んできたから、明るくされたくないのかな……? でも、これくらいの明かりなら、部屋全体が明るくなるわけじゃないから、多分気づかれないだろう。
「レン君?」
「あ……いや、その……リン、その格好、お父さん何も言わないの?」
 レン君は、妙なことを訊いてきた。寝ようと思っていたから寝巻きなんだけど……。わたしは、なんとなく自分の身体を見た。今年に入ってから買った、お気に入りの寝巻きだ。薄いふわっとした生地でできていて、たっぷりドレープがとってあって、襟ぐりと袖ぐりにレースがあしらわれている。以前見たバレエの、精霊の衣装に少し似ていて、それで気に入って買い込んでしまったものだ。
「お父さんはわたしの寝巻き姿なんて見たことないわ。寝巻きだけで廊下に出るのはお行儀が悪いもの。ちゃんと、ガウンを羽織ってから廊下に出るわ」
 ちょっとお手洗いに行くだけにしても、寝巻きで歩いたら怒られてしまう。だから、季節を問わず、廊下に出る時はガウンを羽織ってからになる。
 レン君は視線を伏せて何か考えていたけれど、しばらくして、意を決したように顔をあげて、わたしを見てくれた。大事な話……心が、不安でざわめく。
「えーと……リン、落ち着いて聞いてくれ。実はリンが閉じ込められている間に、君のお父さん、学校に苦情を持ち込んだんだ。俺がリンに手を出したって」
 レン君の口にした言葉は、ショックなんてものじゃなかった。お父さん、「向こうが非を認めないから証拠がいる」って言っていたけど、これ、このことだったんだわ。だってレン君は身に覚えが無いんだから、否定するに決まっているもの。
「落ち着いて……」
 レン君の手が、わたしの肩に触れた。いつもと同じ温かい手。でも、わたしはこの手に、甘えていいの? わたしのせいで、妙なことになっているのに。
「わたしたち、そんなことはしてないのに……」
「そうだよ。でも、お父さんは俺がリンに手を出した、だから俺を処分しろの一点張りで」
 わたしはぱっと顔をあげ、レン君の顔を見つめた。レン君は、真面目な顔をしている。
「処分って……レン君を学校から追い出せってこと!?」
「……まあ、そういうこと」
 レン君はそう言って、肩をすくめた。
「それで、俺の母さんもアメリカから帰って来て、学校と話し合ったりしたんだけど、リンのお父さん、一歩も引いてくれなくて。なんか学校の方も妙に、リンのお父さんには腰砕けというか……」
 わたしは、はっとなった。思い当たることがあったからだ。
「……寄付金だわ」
「寄付金って?」
「うちの学校、前にも言ったけど、お父さんの母校なの。だから毎年、学校にかなりの額を寄付しているのよ。お父さん、きっと、レン君を追い打さないと寄付金を打ち切るって言ったんだわ」
 お父さんはよく、自慢気に「今年はいくら寄付してやった」と話すことがある。まさかとは思うけど、こういう時のために寄付していたの? お父さんならありうる話だ。
 なんで……なんで、レン君を追い出すためにそこまでやるの? どうして、そんなことが平然とできるの? お父さんのことがわからない。全然わからない。
 わたしは、レン君の顔を見た。まだ殴られた跡が残っている。これだって、わたしのお父さんのせいだ。わたしはそっと手を伸ばして、レン君の頬に触れた。
「レン君……ごめんなさい、お父さんのこと」
「だから、それは気にしなくていいよ。リンのせいじゃない」
 わたしは、ゆっくりとかぶりを振った。
「でも……わたしとつきあわなかったら、レン君、殴られずに済んだし、学校に苦情を持ち込まれることだってなかったのよ」
 普通に……ううん、いい成績で高校を卒業できただろう。わたしとさえつきあわなければ。
「それを承知の上で、それでも、俺はリンとつきあいたいって思ったんだよ。今でもね」
 レン君はそう言ってくれたけど、わたしはレン君の顔を見ることができなかった。お父さんのことはそうでも、お母さんのことはどうなの? レン君、それでもいいって、言ってくれる……?
 わたしが下を向いていると、レン君がわたしの肩を抱いてくれた。……あったかい。いつもみたいに、レン君に寄りかかりたい。でも、その前に話しておかないと。
 そう思ったものの、わたしはなかなか口にできずにいた。
「……リン?」
 レン君が、怪訝そうに声をかける。わたしは意を決して、口を開いた。
「あの……あのね、レン君。今まで黙っていたんだけど、わたしがお母さんって呼んでいる人、本当のお母さんじゃないの。お父さんと再婚して、二歳の時からわたしを育ててくれた人なの」
 レン君は、何も言わなかった。驚いているのかな。三回の結婚暦って、やっぱりあんまり無いことだと思うから。
「それでね……わたし、ずっと、本当のお母さんのことは何も知らなかったんだけど……レン君が殴られた日に、お父さん、わたしに言ったの。わたしの本当のお母さんが家を出て行ったのは、不倫して駆け落ちしてしまったからだって……」
 本当のお母さんは、不倫して駆け落ちしただけじゃなくて、多分、ルカ姉さんのことを苛めていた。そんな人が、わたしの実の母親なんだ。
「そして、こうも言ったわ。『あばずれの娘はあばずれになる』って。だからお父さん、わたしの言うことを信じてくれないんだと思う」
 わたし……一体、何なんだろう……。
「わたしは、レン君を殴った上に、学校に苦情を持ち込んで退学させようとする父親と、男にだらしなくて、夫の連れ子を苛めるような母親の間に生まれたのよ」
 そんなお父さんとお母さんの血を、わたしは受け継いでいるんだ。どんなにがんばっても、わたしはまともな人生は歩けないのかもしれない。
「……リン。リンに、クッキーやケーキの焼き方を教えてくれたのは誰?」
 レン君はしばらく黙っていたけれど、不意に、そんなことを訊いてきた。
「お母さんよ。……わたしを育ててくれた方の」
 お菓子の作り方を教えてくれたのも、絵本を読んでくれたのも、劇場に連れて行ってくれたのも、全部、お母さん――今のお母さんだ。
「だったら、リンのお母さんは、その人だよ」
 レン君は、きっぱりとそう言った。そう思っても、いいの?
「育ててくれたお母さんに、そう言ってもいいと思う」
 その言葉を聞いて、わたしはようやく、少し安心することができた。お母さんは、お父さんがわたしのことをクズだって言った時、「取り消して」って言ってくれたもの。それに、こういうふうに言ってくれるということは、わたしの両親のことは、気にしないでいてくれるということよね? 緊張がほぐれると同時に、身体から力が抜ける。
「リン、話を戻すけど、いい?」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

ロミオとシンデレラ 第六十九話【まだ諦めてはいけない】前編

閲覧数:980

投稿日:2012/04/30 23:33:35

文字数:4,504文字

カテゴリ:小説

オススメ作品

クリップボードにコピーしました