「しかしそんな旦那様が身近にいらっしゃるなら、流花くんが学徒になることを嫌がったのではないのかね」
「えぇ、とても。ですがその癖口ぶりは達者でして、『学生として人と交わり、たくさんのことを学びなさい。こんな屋敷に閉じ込めるのでは可哀想だ』と、強がりに仰いまして。毎日大変ではございますが、とても感謝しております」
「そう。君は未来ある学生なのだ。そうして笑っているほうが美人には良く似合うでな、笑うことを忘れてはいかん。未来が明るくあるためにも、まずは学生が、若者が笑顔になれる社会でなければならん」
「ありがとうございます」
「そう、ちょうど…彼らのようにな。見てごらん流花くん、川原を」
「川原を?…いえ、どなたもいらっしゃいませんが」
「何ぃ?」
「えぇ、誰も」
「あの小坊主共めどこへ消えた!?」
「存じませんが…お子様方が遊んでいらしたのですか?」
「っまぁ、そそ、そうだ流花くん、あの桜の木だ」
「桜の木ですか?」
「いかにも。花はすでに散ってしまって、いささか華やかさには欠けるかもしれぬがな。見てご覧、あの鮮やかに生い茂る若葉を。桜の花はあらん限りの美しさを以て鮮やかに咲くが、すぐ散ってしまう。花の命は短いと言うが、ああも短い命なら愛でる暇などないに等しい。もったいないことこの上ない。しかしだ流花くん。あのみずみずしく茂る青葉、若葉と呼ばれる大きく強い葉だ。あれには力強さを感じる。若々しさを感じる。可能性を感じる。美しさを感じる。あれこそが日本の象徴となるべき美しさ、未来ある若者の姿を見せる若葉だ」
「似た話を、よく先の旦那様がしていらっしゃいました。本当にお客様は、旦那様によく似ておいでです」
「…流花くんのような娘を女中に据えられるとは、なかなかどうしてご立派なお方だったのだろう」
「えぇ、ご立派な方でございました。安保闘争の煽りを受けて旦那様は世間の一線を退かれてしまい、以降は全くお伺いしておりません。現在はどちらで、何をして過ごされていますやら…」
「僕に似てるのであれば案外、どこぞの喫茶店で女の子を口説いているやも知れんぞ」
「お客様も、ご冗談がお上手ですことで」
「はっは、冗談に付き合ってくれる人が僕の周りにはいなくてね、年寄りは暇を持て余しているんだよ」
「今後とも、どうぞよしなに」

 そういうと給仕はしずしずと客のそばから離れていった。話に飽きたわけではなく、ただ単純に他の客が来店したというだけの話だ。せわしなくお店の隅々を右往左往している彼女に、こうなってしまうと話しかける隙をうかがうことすら難しい。彼は鞄に手をやり、二冊ほど本を餐卓に置いて、読み始めた。
 やがて太陽が窓から見える位置になり、水面を煌めかせる頃合になると、給仕が戻ってきた。昼の繁忙期を終えて、その眼差しは溌剌とした輝きを帯びているが、緊張のせいだろう。瞳がわずかに大きく開き、わずかに紅潮した頬は満足そうな笑みをいっそう鮮やかにしていた。

「お疲れ様です」
「温かいお言葉、痛み入ります」
「はっは、そうも畏まられると困るね」
「何を仰いますか、お客様がお客様であることに代わりは御座いません由」
「かといって、畏まった喋り方はそれそのものが異質である場面もある。その浮世離れした口調がお好きな殿方も多いと聞くが」
「…いえ、まだ育ちが抜けぬものでして」
「はっは、よほどの良家よりいらした方のようだ。これなら貰い手に困ることもなかろう、将来安泰とはこのことだな」
「お、お戯れで御座います、お客様」
「ま、それが趣味みたいなものだよ。僕みたいなご隠居にとってはね」
「悉(ことごと)に弄ばれぬる者の気持も少しはお考え下さいまし」

 男は給仕の恥らう所作を改めて美しいと思いつつも、再び本に目を落として読み始めた。しかして、いくら頁をめくれども給仕との会話が再び思い浮かんでしまって本の内容が入らぬまま、男はぼやり、時間の流れを眺めていた。
 少年期の幼さをたたえたまま年を重ねている顔立ちに、灰色の背広がやっと似合うようになったような男だが、その実、彼はすでに社会から一線を退いている。今の社会がどうなっているかなどさして気にも留めず、彼はのうのうと暮らしている。その姿であることこそが、むしろ彼の職務であるかのような、妙な気楽さを見せていた。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

【二項目】二次創作小説『近代歌姫浪漫譚 千本桜 ~学徒が華ぞ咲きにける~』【胡蜂秋】

黒うさP『千本桜』の自己解釈・二次創作小説です。

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閲覧数:717

投稿日:2012/07/21 23:50:27

文字数:1,793文字

カテゴリ:小説

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