描くのならば、この世で最も美しいものを描いてみたい――。
 絵筆を執る人は、一度は思う事ではないでしょうか。


 処は中国、万里の長城の北側(現在の内モンゴル自治区)に、匈奴(きょうど)と呼ばれていた国が御座いました。
 時は前漢の時代で御座いますから、紀元前の事で御座います。

 匈奴の王は単于(ぜんう)と呼ばれておりました。
 前漢の高祖・劉邦の時代より、前漢は匈奴を攻撃しておりましたが、第十代皇帝・元帝の御世になりますと、一次的に和睦を結ぶ事が出来ました。
 その当時の匈奴の単于を呼韓邪単于(こかんやぜんう)と申します。
 匈奴には宮殿など御座いませんが、呼韓邪単于は絵を嗜み、人々の暮らしや風景などを描いておりました。

 のびのびと暮らす人々の明るい笑顔。
 砂漠とオアシスと太陽。

 描く喜びは有るのですが、何かしら、呼韓邪単于は物足りなく思っておりました。

 「単于」
 側近の一人が声を掛けてきました。
 「ああ、何かな?」
 「後日、漢の天子に謁見せねばなりません」
 「うん、そうだね」
 「そこで、如何でしょう、単于は独身であられますから、漢の婦人を妻に迎えたいと奏上なさっては」
 「え?」
 突拍子もない側近の申し出に呼韓邪単于は困りました。
 すると。
 「和睦を結んだとはいえ、我が国は漢の属国のような扱いではありませんか。
 その位、お望みになさいませんと、単于の面子が立ちませぬ。
 それに、漢の天子も争いで国を弱めるよりも、婦人一人で済むのなら、後宮に抱えている婦人を我が国に送る事位、御承諾なさいます」
 「うん、確かに。
 でも……、どんな婦人を送ってくるか、解ったものじゃないよ」
 呼韓邪単于がそう微笑みますと、側近少し考えてから。
 「実は、漢の太監(宦官)と顔見知りになりました。
 太監は去勢された男ですから後宮の出入りも自由ですし、何より、金で動かす事も出来ます。
 単于は絵をお描きになるのがお好きで御座いますから、謁見の後に、絵師として後宮へ赴かれては如何でしょう。
 漢の天子の事ですから、必ずや不美人を送ってくるに違いありませぬ。
 単于がお気に召した婦人を、不美人に描けばよいのです」
 「うん、妙案だね。
 しかし……、女性をわざと不美人に描くだなんて、失礼じゃないかな?」
 「何を仰せになられますか!
 我が国・我が民族の面子がかかっているのですぞ!」
 若い呼韓邪単于は側近の気迫に気圧されてしまいました。
 「わ……、解った、解ったよ……。
 その様に、手配を」
 「御意」

 そして数日後、呼韓邪単于は宮中に参内し、漢の天子・元帝に謁見致しました。
 宮殿はそれは見事で立派なもので、調度品も立派ですし、何とも言えない、かぐわしい香が致します。
 呼韓邪単于は前もって教えられた通り、天子に礼を取りますと、労いの言葉を頂きました。
 そこで、呼韓邪単于は切り出します。
 「漢の天子にお願い致したいことが御座います。
 お聞き届け願えませんでしょうか?」
 「ほう……、どんな望みかな?」
 「漢の婦人を賜り、匈奴の王妃としたいので御座います」
 「ふむ……」

 さて、呼韓邪単于が天子に謁見しております頃、単于の側近は顔見知りとなった太監に頼み事を致しておりました。
 「単于は絵を描かれるのが大変お上手です。
 ですから、こちらで絵師として、後宮の婦人方の絵を描かせて頂けませんか?」
 側近はそう言いながら、太監にそっと、お金を渡します。
 「まぁ、それは構いませんが……、何故です?」
 「今、単于は漢の天子様に、『漢の婦人を賜り、匈奴の王妃としたい』と奏上なさっておいでです。
 漢の天子様は、後宮の中からお選びになる。
 その為に沢山の絵師をお呼びになるでしょう」
 「成程、折角の和睦、その位の願いならお聞き入れになるでしょうし、後宮に抱えた三千人の中から、理由は伏せて、不美人をお選びになるでしょうな」
 「はい」
 「では、単于には漢の服を着て頂く事になりますが、それは構わないのですかな?」
 側近はにこっとしながら、更にお金を渡しますと。
 「単于にとっては、美人の絵を描けるのであれば、その様な事は些細な事。
 宜しくお取り計らいを」
 頼まれた太監は渡された金額に満足の様子です。
 「解りました。
 一旦、長城(万里の長城)を出られた後、近くに留まっていて下さい。
 漢の服など、必要なものを届けさせましょう。
 それから、絵師として、改めておいで下さい」
 「有難う御座います」
 「いや、礼には及びません。
 太監は知ってのとおり、男ではありませんから、ね。
 こうやって金子を集めるだけが楽しみなんですよ」

 さて、呼韓邪単于の謁見も終わり、元帝は太監の意見を尋ねる事になさいました。
 「女一人、くれてやるのは構わないのだが、さて、誰を送るべきかな?」
 「恐れながら、単于は『漢の婦人』をとの申し出でありますから、後宮の者で差し支えなく存じます」
 「それは、朕も考えていた処なのだが、問題は人選をどう致すかなのだ」
 「それでしたら、理由はお伏せになり、絵師に描かせては如何に御座いましょう?
 後宮の者は、御寝に侍らせる者をお選びになる為に絵を描かせると思うに違いありませぬ。その中で、最も不美人な者をくれてやっては如何かと」
 「ふむ……。
 美人をくれてやるのも惜しい。
 直ちに手配せよ」
 「御意」

 長城の近くで待っていた呼韓邪単于は、漢の服に着替え、側近の顔見知りという太監に案内されて、絵師として後宮に足を踏み入れました。
 流石に漢の後宮だけあって、皆、それなりに美人ではありますが、皆、賄賂を渡してくるのです。
 作り上げられた美しさに賄賂。
 それなりに美しく描く事は出来ましたが、描く喜びがありません。
 『此処には見せかけだけの美しさしかないのだろか……』
 単于が半ば諦めていた処へ、一人の女性が入ってきました。
 「あ、あの、お名前は?」
 「王昭君に御座います」
 品のある振る舞い、内面から滲み出る美しさ。
 単于は息を飲みました。
 「あの、描いても、宜しいですか?」
 胸の高まりを抑えながら、単于が問いかけると、王昭君はただ微笑んで頷きました。
 この方は、お心持ちが他の後宮の女性とは違う……。
 そう思いながら、単于は夢中で描こうとするのですが、筆先が震えてしまい、一向に上手く描けません。
 一応、描き終えてはみたものの、それは余りにも酷く、当人とは似ても似つかぬ絵となってしまいました。
 『美しいものを描きたいと思っていたのに、本当に美しいものを描ききれないなんて……』
 描き終え、王昭君は礼を取り、その場を去ってしまいました。
 『あの方に、詫びなければ……』
 単于は悔いながら、その後も何人かの絵を描き、後宮を後にしました。

 そして数日後。
 漢より婦人が長城を越え、琵琶を携え、匈奴へとやって参りました。
 呼韓邪単于はその婦人を見て驚きました。
 「あなたは、もしや……、王昭君様では?」
 いきなり単于にそう言われた王昭君は。
 「はい、匈奴の王・呼韓邪単于に嫁ぐ為に参りました。
 わたくしはあなた様の妾(つま)に御座います故、昭君とお呼び下さいませ」
 「あなたに、謝らないといけない事があります」
 「何で御座いましょう?」
 「実は、あなたには一度、お会いしています」
 「え?」
 「後宮で絵師として、あなたを描きました」
 「まぁ、あの時の……」
 「はい、絵を描くのが好きなんです。
 だから、絵師に成りすまして、あなたを描いたのですが……。
 あなたが持つ内面から滲み出る美しさに圧倒されて、美しいあなたを、美しく描く事が適いませんでした。
 もし、宜しければ、ずっと、あなたを描かせて下さい。
 あなたを、美しく描く事が出来る様になるまで」
 王昭君は、はにかみながら語る単于に。
 「何を仰有いますの、わたくし、あなたの妾に御座いますわ」
 単于は微笑むと。
 「あなたを一生、大切にすると誓います。
 あなたの願いも適えましょう。
 その代わり、毎日、あなたの姿を描かせて下さい」

 その後、呼韓邪単于は王昭君を大切にし、最も美しいものを描くという喜びに筆を躍らせたそうです。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
  • 作者の氏名を表示して下さい

呼韓邪単于と王昭君~最も美しいもの&薬効アンソロ~

曲り豆様 The Most Beautiful Thing(最も美しいもの)
http://piapro.jp/t/WpiA
のアンソロです。

薬効アンソロ01王昭君とも絡んでいます。
http://piapro.jp/t/X4CD

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投稿日:2012/11/17 04:46:49

文字数:3,452文字

カテゴリ:小説

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