夜の帳の灯が午前零時を過ぎても、ちらほらと僅かにもその光が眼に映るから気になって眼を凝らして観てみると、電信柱の真上には数匹の虫たちが灯を浴びて止まない。

どうも六月になると辺りは重々と蒸し暑いせいか、夜の奥のもっと向こうには怖いと震える意識の向こうに仄かな光がこぼれているのが、最近のボクには少し気になる季節だった。

-夜の奥の事、覚えていてくれたのね? -

そんな台詞がただただ頭の中を駈けずり回って、知りたいとさえ行動しようとするボクの両足は、怖いと想う心に反してとても立派に感じた。

そう心ではどの位の恐怖を想像したのか判らない位、ボクの頭の中も電信柱の上の虫たちに蝕まれていた。

やがて、仄かの光がボクの近くまでやって来ると、ボクは怖がる身体の背中を押して真っ白な意識の中、頭の中はどうしようもない恐怖にさいなまれていた。

-此処には来ないでって、遠い昔に云ってたの忘れてしまったの?-

辿り着いた光の向こうから、まるでボクの事を知っているかのような人の声が耳元に響いた。

驚きのあまり腰が抜けてしまった臆病なボクは此処が夜の奥だというのに関わらず、暗闇を間近で観ていたいかのように瞳を閉じて、嘘と現実の狭間を真っ白の頭で考えようとした。

-独りでこんな所にいるから、死のうとするのよ-

気付けば、そこは安堵が堪能できる場所。

「こんなに遠い所まで来て、ボクは何やってんだろう?」

いや、此処をボクはよく知っている。学校から家まで、いつも通る溜め池だ。

ふと我に返ったボクは浮かない顔の状態でも後ろを振り返って、来た道を戻ろうとした。夜の奥の先に仄かな光が観え始めた頃には、幼い頃に池で溺れた時の光景にとても近かったのが不思議で仕方なかった。

「無意識で、再び水の中に自ら溺れようと?」

そんな訳あるはずがない。心に刻まれた深い痛手は今も尚、無意識な世界で鮮明なまでに生き続けている。来た道を戻っても戻っても、向こうの方にはまだ仄かな光が反射している水面の揺らめきを、ボクの眼が捕らえて止まないのだから。

さっきまでボクの意思で動いていたはずの両足も、何故か勇ましく足取りは軽く軽快だった。

-着いたの、ね-

そういえば幼い頃、過ってか近くの池にどういう形で溺れたのか全く思い出せないでいた。一歩一歩、歩調を合わせていくうちに、水面の上を踏み出そうとしている状況に、要約不信に想った自分に気付いた。

「このまま歩いていく先に、本当の夜の奥のあるべき姿に辿り着けるかもしれない」

躊躇いも不安もないままに、ボクの足はいつもの歩調で水面の彼方に向けて歩み始めていた。

-やっぱり、そうなんだ-

想った通り順調に、ここからであれば水面も地面のようになってずっと気になっていた夜の奥まで辿り着けるんだ。

夜空に浮かぶ月はとても穏やかで、焦る気持ちも皆無な位、ボクは人類で初めての水面歩きを実現させていた。

-もう少し、頑張ってほしかったな-

水鏡が月の反射でとても煌びやかに映って観える頃には、ボクが通り過ぎた後の波の羽音もそれからは揺らぐ事もなく、静かにボクさえも観えなくさせていた。

そういえばあの時、水の中に溺れていたボクを救ってくれた人って、他人のボクなんかをどうして助けてくれたんだろう?

こんなボクなんかにさ、ヘヘ。

「ねえ、ママ?昔よく読んでくれてた絵本のとおり、夜の奥にはこんなにキレイな世界が広がっていたよ?」

両手を水平線のように並行に真っ直ぐ水面を歩いていく先には、星空と月とがまるでシンフォニーのように眩く輝いて観えるんだ。

-私がね、自分とキミの弟とを共に失くしてしまったばかりにね。キミにはもう少し私たちの分まで生きてて欲しかったんだ-

-でも、ありがと。亡きパパの描いた絵本を覚えてくれていて-

「おい!お前、こんな所で何やってんだよ!」

普段当たり前に生きようとしている人からしたらさ、そうしたくない人の気持ちなんてきっと判るはずないよね。

「大丈夫か?おい、大丈夫か?」

水面をくぐり抜けると向こうにある景観はとてもキレイで、この世にはない素敵な空間がボクを待ってくれているんだ。

パパがそんな事を、昔話してくれたから。

「おい!おい、しっかりしろ!」

パパとママの心の中に、ずっと生きていたいから。

心の中に、だよ?

「夜の奥にはな、そんな素敵な場所が隠れてるんだぞ。誰もが暗くて見えない夜になんか近寄らないから辿り着けないでいるだけだけど、お前が大きくなったらきっと見つけられるから、その時は父さんと一緒に探しに行こうな?」

パパはそう言って、ボクの頭を優しく撫でてくれた。

それなのに、パパもママも弟も、ボクを一人置いて行ってしまうなんて。

「意識だけでも戻らないですか、先生!」

「心肺停止がここまで続いてしまっては、もう」

「先生、この子を何とか生かしてあげてもらえないですか?」

「そう言われましても今の状態では、お父さん」

「!」

ボクは呼吸のない空間で、ふと目を覚まそうとしていた。

あり得ない、その一言を機に。

「先生、心肺が少しずつ動き出しています!」

「何?こんな事があるはずは」

「健人!聴こえるか?パパの声が聴こえるか?」

パパ?

どうしていなくなったはずのパパが、ここにいるの?

「人工呼吸だ、急げ!」

「はい!」

それから。

病室を出てすぐのロビーのソファに俯いて止まない、やつれたパパの姿があった。

「健人は?無事、なんですか?」

「…」

「先生…健人は?」

「長年医者をやっていて、それでも解明されない事は幾つもあるが」

「…」

「こんなケースは聞いた事もないし、奇跡という言葉に縋りたくはないが、他に言葉が見つからないのです」

そうして。

ボクはパパの声を頼りに、夜の奥から帰ってきた。

「どうして、パパがここにいるの?」

「お前にパパの姿が見えるはずないだろ、よく見てみな?」

そう言われると、確かにパパの声は聴こえるも、姿形はそこになかった。

「見えてなくて当然だ。だってお前はこうして生きてるんだからな?」

ボクをこうして助けてくれたのは、あの時も。そして今回もパパのおかげなのかもしれない、と。

「健人、お前にはまだこっちに来るには早過ぎるんだ。選ばれてもない人間が無理にこっちに来ると、酷い仕打ちを受けるからな。パパもママも壮太も同時に選ばれてしまったからそっちにはいられないけれど、声だけでもこうしてそばにいてあげられるんだ。夜の奥にはパパと一緒に行こうって約束しただろ?それまでの間はな、健人。そっちでしっかり生きててくれないか?」

「…」

人間には予め運命というルートが用意されている。それを自ら操作する事は赦されていないから、不意にも自殺を試みた人間たちはその罪を拭うように酷い仕打ちを受けているのだと、パパは続けた。

「お前には予め、生きるという試練がプログラムされているんだ。死ぬという試練よりも複雑かつ困難である、生きるという試練をお前は課せられているんだ」

「どうしてボクなんかが、そんな仕打ちを?」

人間は構造上、元々幸せになれないように仕組まれている。それを試練だと挑戦するどころか、それを拒むかのように生きるのを放棄する事で全てから開放されるのをいつしか望んでしまったために、神は人間を見放す他なかったのだと。

「パパはそれを背いてしまったから、こんな姿で永遠に存在しなければならないんだ。お前にはこうなってほしくないから、これからもずっと生きていてほしいんだ」

「…勝手だよ。パパも、ママも、壮太もさ。みんな酷いよ!」

ボクは心でそう叫びながらも、生きるという試練を心地良さに切り替えて、前向きに息を吹き返していた。

「生きてみせるよ。みんなのためというより、自分のために、ね」

そうして、ボクは病室を後にした。

次の日の朝。

真っ白な病室の天井を、ぼんやり見つめている自分の姿に気が付いた。

「お目覚めですか?」

「…」

無駄に広いその部屋には、白衣姿の側近がカルテを見つめながら、そうボクに告げた。

「どうでしたか、今回のプログラムは?」

自殺撲滅連盟のロゴが入ったベッドに、ボクは汗だくでびしょ濡れの状態で脳波プログラミングのサンプルとして数日という長い間寝そべっていたのだと、白衣姿の側近はボクにそう続けた。

「記憶を潜在的に操作し、生きるという心地良さを提供する事で、自殺願望を取り除こうという今回のプログラムはいかがでしたか?」

「確かに悪くはないが、これで今の世の中の悪い流れを断ち切る事が出来るのかどうかは、まだまだ不安だな」

白衣姿の側近から手渡されたカルテを手に取ったボクは、軽々しくそれにサインをして病室を後にしようとした。

「こんなものが実際、今の荒んだ世の中にどう影響してくれるのか判らないが、少なからずボクには効果覿面だったよ」

「身体を張って実験に貢献頂けた事、心より感謝いたします」

そして、扉のノブに静かに指を触れて続けた。

「ああ、あとな」

「はい」

ボクは少しだけ、にやりと笑って。

「夜の奥っていう言い回しは、お前のセンスか?」

「…」

白衣姿の側近は、少し眉を細めた。

「…恥ずかしながら」

「ふっ、お前らしいな」

そうして。

その作為的な回路は瞬く間に上層部からの承認が下り、その日の内に全人類の脳に埋め込まれるようにプログラミングされた。

「どうだ、少しは改善されたか?」

「はい。むしろ、効き過ぎたかもしれませんね」

人口が減り続けて問題の一途を辿ったと思いきや、今度は人口過多だとさ。

「…どうします、今度は戦争でも起こしますか?」

「ふっ、もう十分だろ。ボクたちは神様じゃないんだ」

みんなの心の中には一つくらいは必ず、明かすことのない夜の奥があるはずなんだ。

それに気付いて、逝き急ぐか。

はたまた、生き急ぐか。

いずれにしても、キミの脳にそうプログラミングされている以上は、その選択肢をどうか見失わないようにね。

どちらの路を選んでも間違いではないけれど、どちらも困難な試練である事に変わりはないのだから。

「パパ、ボクは生きるよ。パパがそうでなかったからって訳じゃないけど、なんか癪だからさ」

ボクはカルテの備考欄にそう記入してから、すぐに破り捨てて病室を後にした。

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

夜の奥

閲覧数:50

投稿日:2016/05/26 22:41:16

文字数:4,356文字

カテゴリ:小説

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