私は読んでいた本を勢いよく閉じた。
「おや? もういいのかい?」
 見れば、カウンターテーブルの向こう側の店主が屈託のない笑顔を浮かべている。その傍らに立つ『少女』は、私と目が合うとぱちぱちと瞬きをして小さくお辞儀をした。
 少女が少年に代わる。まさしく『知っている通り』の内容。では、この少女は……。
 否。そんなことは関係ない。
「話が、違います」
 店主を見据えて私は言う。声は僅かに震えていた。
「私が知りたいのは、彼の……『桜野零』の、ことです」
「何、焦るでないよ」
 店主はへらりと言った。
 いかにも余裕綽々といった調子は一見すると普通そのものだが、この異様なこの空間の中では普通であることの方がおかしい。
 無論、存外平然としていられる私も含めて。
「君は確実に彼を追えている。『本を跨いだ』のが何よりの証拠だ。現に君は既に二冊読んでいる。そうと意識することなくね」
 手元の本の背表紙を見る。真っ黒な装丁の本の背には、確かに『洞井日乃』とある。もう一冊はおそらく『縹一色』、あの絵描きの青年の話だろう。
 『本を跨ぐ』? 読んでいる途中で本が変わることを指しているのか。確かに途中で内容が変わったような感覚があったが、そんなことが有り得るのか。
 そもそも、私には『本を読んでいたという自覚がなかった』。
 最後の記憶は、店主から差し出された本を受け取ったあの瞬間。受け取ってから、今さっき本を閉じたあのときまでの間の記憶が、ごっそり抜け落ちている。
 いや違う、抜け落ちているわけではい。記憶はある。しかしそれは私の記憶ではない。
 ──一通り考えたのち、零れたのは掠れた笑い声だった。
 神様の貸本屋、ありとあらゆる人間の人生が記された本が所狭しと並べてある不思議な場所。まさか本当に『ここ』だったなんて。
「天峰雫」
 名を呼ばれ、反射的に顔を上げる。
 なぜ、という言葉は出てこなかった。何となくこの人は私の名前を知っていると思っていた。
「人生は交錯する大きな環だ。その中に君は、君たちは、いる」
 線を引くような言い方だった。
「店主さんは、その環の中にいないんですか」
 店主は肩を竦めただけだった。
「人間は繋がっていくんだ、決してそうとは知らずにね。どこかですれ違っただけ、どこかで見かけただけの誰かにも人生がある。君は今、その軌跡を辿っているんだ」
「……わざわざそんなことをする必要が?」
「人生というものは実に厄介で、これ以上ないほど複雑怪奇に絡み合っている。故に、特定の人物だけをすぐ探し出すなんてことは不可能なのだよ。
 言ったろう? 探すなら追うこと、と。
 無論、追うといっても簡単ではない。例うならそれは梯子酒だ。百も千もある店をあちらこちらふらつきながら、たった一軒の目的地を目指していることに等しい。
 しかし……」
 店主はそこで一度言葉を切り、覗き込むように私を見つめる。
「君ならそれほど苦戦しなさそうだ。なぜなら君は今素面であり、そして至って正気だからだ」
「……正気、ですか……」
 店主のいまいち掴めない雰囲気のせいか、またはこの店全体の不気味な空気のせいか、あるいは私自身が経験したこの数分間の人生旅行のせいか、その言葉はやけに白々しく聞こえた。
「じゃあ訊きますが、店主さんは正気ですか」
 店主は「さあねえ」と口元を緩めた。煙に巻くような含み笑いだった。
「君にはどう見える?」
「私には到底、あなたが正気だとは思えません」
「なるほど。ではそうなのではないかな?」
「……ふざけているんですか?」
「ははっ、まさか! 私はいつだって大真面目だよ」
 笑いながら店主は言った。
 この店主はやけによく笑う。笑い上戸、という言葉が思い出された。この店主が素面だとも正気だとも思えない。千鳥足でふらつく酔っ払いにしか見えないのだ。目的地の一軒のことなど、とうに忘れているのではないかとも思えるほどに。
 ……では、私は。
 手元の本を見る。
 店主は言った、私は至って正気だと。
 ──そんなわけがない。
 彼を探して何日も街を彷徨い歩いた挙句、辿り着いた場所がここだった。
 確かに私は素面と言えるかもしれない。しかし、それは私が既に正気ではないからだ。それだけの話だ。
「お客さん?」
 そのとき、聞き覚えのない高い声が聞こえた。
 はっと顔を上げると、あの少女がこちらを見て目を瞬かせている。
「大丈夫ですか?」
 その目は、どこを見るでもなく虚ろであった。その痛ましい姿から目を背けたくなる。
 ──全て勘違いだったのかもしれない。少年と思っていたのは早とちりで、この店にいたのは初めからこの少女だったのかもしれない。
 そうだ。この少女が、先程読んだ『彼女』とは全く同じ人という証拠は何もないのだ。何もないはずなのだ。
 しかし見てはいけないものを見てしまったのではないかという後ろめたさは、決して消えようとはしなかった。
 雑念を振り払うように黒い装丁に目を戻した。先程『読んだ』内容を思い出す。
 ペン、インク、そして『名前を渡す』ということ──。
「……店主さん。最後に訊きたいことがあるんですが」
「何だい?」
 カウンターテーブルに頬杖をつく店主は、相も変わらず飄々とした調子で答えた。
 この質問をしたところできっと同じ調子で躱されるのだろう。しかしだからといって訊かないわけにはいかない。
「あなたは誰で、ここはどこなんですか」
 やはりというか、店主はまた笑った。
 ただ、今まで見てきた裏の読み取れない笑顔とはまた少し違う気がした。店主は一瞬目を丸く見開いて、そしてにぃっと口の端を引き上げ、悪戯っ子がするような笑みを浮かべたのだ。
「やっぱり君は面白いね、天峰雫」
「それ、褒めてます?」
「勿論だとも。長いこと貸本屋をしてきたが、君みたいな子はなかなかいない。その面白さに免じて、君の質問に答えるとしよう」
 瞬間、ぐらり、と視界が揺らぎ始める。夢に落ちる直前のような浮遊感の中、店主の言葉がやけに耳を突く。
「ここは交錯する環の中心。どこにも交わらずどことも交わる、全ての『作者』に通ずる深層心理。
 そして私はその一部、君たちが綴るインクの中にのみ存在する共通の偶像。ある人間曰く──」
 最後、耳に響いた店主の言葉が、やけに頭の奥まで染み付いた。

「──神様、というやつである」

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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[小説] 天峰雫

閲覧数:110

投稿日:2023/02/22 17:59:20

文字数:2,646文字

カテゴリ:小説

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