消えるように君が言った
言葉だけが残される
「さよなら」
─────────────
「ごめんなさい、さよなら」
『さよなら』という辛辣な言葉を彼に突き付けて私はその場を去った。
相手の顔は見ない。見たら涙が止まらなくなることはわかっている。
「待ってくれ、由希!」
後ろから彼の呼ぶ声がする。私がずっと好きだった彼のその声は私の心を深くえぐる。
でも、振り向かない。私にそんな資格はない。
そのまま逃げるように私は眼の前の自宅のドアを開け、中に入り、それに鍵をかけた。鍵のかかる音が室内の冷たい空気をより際立たせる。
久しぶりにみんなと会った同窓会。そこで私は幼馴染の彼と再会した。彼は私のよく知る彼のままだった。
そう──私の好きな彼のままだった。
うれしい気持ちと懐かしさが上手く混ざった幸せな感覚に包まれた同窓会だった。
私は家に入るなり、そのまま真っ暗な部屋のベッドにうつ伏せになった。
確かに楽しい同窓会だった。けれども私を家まで送ってくれた彼の言葉でこの気持ちは一瞬で崩壊した。
その言葉は私が幼いころから望んでいたものだった。ただ単純な言葉。
「由希、お前のことが好きだった。いや、今も好きだ! だから……」
本当は嬉しくて仕方ないはずの言葉だった。でも、受け入れることはできない。
私には罪がある。
そのまま私は体をベッドにゆだね、意識を深くに落とした。
─────────────
私は少し肌寒い真っ白い場所に立っていた。周りをどれだけ見回してもひたすらに白が続いているだけの空間である。もはや距離感がつかめなないくらいすがすがしい白さが私を包んでいることに少し面食らった。
少し時がたった。私は手持ちぶさたにぼうっと立っていただけだったが、一つわかったことがある。
そう、ここは私の夢の中だ。
わかってしまえば何のことはない。この世界に怖いものは何もない。
私は歩を進めた。
「ねぇ、どこに行くの?」
透き通ったかわいらしい声が後ろから私を呼んだ。別に振り向いても私に損はなかったのだが、何となく、本当に何となく、私は振り向かなかった。
「無視しないでよ。こんな雪の中歩いてるあなたを心配しているのだから」
『雪』と声の主が言った瞬間、ゆっくりと桜の花びらが落ちるくらいの速さで降り続く雪が私の視界の上端から下端まで絶え間なく降りてくるようになった。私は思わず足をとめた。
「知ってる? 桜の花びらが落ちる速さって秒速5センチメートルくらいらしいよ」
急に雪が降り始めたこと、後ろにいる誰かが私の思考を読み取ったこと、それらのことに私は疑問を一つも抱かなかった。
そう、ここは私の夢だ。
だからと言っては何だが、『彼女』の正体も予想ができていた……いや、知っていた。
「冬香なんでしょ?」
そう言って私が振り向いた後ろには誰もいなかったのだが、これにも驚きはしなかった。そこに彼女がいたことだけは確かなはずだ。
彼女は案外すぐに姿を現してくれた。『すぐ』と言うと誤解があるかもしれない。『須臾』と言った方がいいくらいの早さで彼女は現れた。
「こっちだよ」
冬香は私の前に柔らかい笑みを浮かべて立っていた。
その姿は私が覚えている確かな「存在」。全くあのころのまま、少女のままの冬香だった。その真っ白い雪色の肌や、真っ白いニット帽に、真っ白いコート、真っ白い手袋、淡い幻想みたいにはかなげな容姿も、あの時のまま、私の記憶の中の冬香そのままだった。
そう、ここは私の夢だ。
「驚かないんだね。それより、昔みたいに『ふぅちゃん』って呼んでくれないんだ」
「私はもう子供じゃないのよ」
拗ねたふりをする冬香に私はこもらない感情を添えてそう言った。夢だから驚く必要もないのだから。
私はそのまま消え入りそうな微笑みを浮かべている冬香を見続けた。そして一番聞きたいことを言葉にした。
「どうしてここにいるの?」
私の問いに冬香の表情は変わらなかった。息を吹きかけるだけで溶けてしまいそうな笑顔をただただ私に向けていた。
「さよならを言いに」
そう言った冬香の腕を私は無意識のうちにつかんだ。その腕は冷たい、気がした。
「やっぱりね」
私がそうすることを予想していたかのような表情を見せてから、冬香は私の手を見て首を少しだけ傾けつつそう言った。
「私がこうするのわかっていたみたいね。どうして?」
冬香が私の行動を予想していた理由、そんなものは私もわかっていた。理由は単純……
そう、ここは私の夢だ。
「どうしてって、ここは私の夢だから……かな」
「えっ? 冬香の……夢?」
私はここに来て初めて驚きを感じた。そのせいか、心なしか降り続いている雪が強くなって、私と冬香の距離が遠ざかったように感じられた。現にいつの間にか私の手は冬香の腕をつかんではいなかった。
「どうしてそう思うの?」
私のもとから離れた冬香が先ほどとは逆方向に首をかしげた。
どうして、と問われると何とも言えない。少しの沈黙がなぜか冬香の言い分を肯定したように思われた。悔しいが、勝者は冬香だ。
「私は証拠、見せてあげられるよ……ほらっ」
冬香が自分の足元に積もっていた粉砂糖みたいな雪を真っ白い上空に投げ上げると、私たちはたちまち真っ暗い中に数えきれない星が瞬く空に覆われた。
雪がやんでもこの空間は神秘的なままだった。
「夢は願いを叶えるところ。私が願ったから星空になったんだよ。どう? きれいでしょ?」
冬香は昔からそうだった。辺り一面の銀世界や、天いっぱいの星空、そんな夢幻を私たちに錯覚させる景色が好きだった。
天から注がれる半月の薄暗い黄色の光が、ほのかに冬香を照らしていた。
そう、ここは冬香の夢だ。
また冷たい沈黙が流れた。今度は私が沈黙を破ることにした。
「今さらさよならを言われる理由が分からない」
「あれ、てっきり分かってるのかと……」
私は首を横に振った。
「だってここは冬香の夢なんでしょ。私が知るわけないじゃない」
「それもそっか」
自分で言っておいて忘れるのはどうかと思ったがそれについては言及しないことにした。ここが冬香の夢の中だと言うことは、冬香にとって呼吸をするのと同じくらい意識の外で成立していることなのだろうから。
「それで結局理由は何なのか」私がそれを尋ねようとすると、待ち構えていたかのようなタイミングで冬香は私に告げた。
「月が欠けてきたから。それ以上でもそれ以下でもないよ」
全く因果関係が見えなかった。けれども、そんなことはどうでもいいように思えた。
月を指す冬香の手はやはり真っ白の手袋に覆われていた。たとえこんなに神秘的な月光に照らされていても冬香は真っ白であり続ける。
ここで私が詳細を聞こうとしても無駄なのだろう。そんなことはわかりきっている。
そう、ここは冬香の夢だ。
私と冬香はそのままじっと半月を見ていた。どちらも瞬きする時間さえも惜しむかのように一心に月を見ていた。月は、欠けそうもなかった。
不意に冬香が月から視線をそらし、それを私に向けた。
「いつまで私を待ってる気?」
「待ってるように見える?」
「見える」
「だったら、冬香の眼は節穴ね。私は冬香を置いていったからこそ大人になった」
「……わかってるくせに」
「さぁ、どうだか」
冷めた言葉の応酬。お互いの共通認識を言葉にして確認しただけだった。
私は待っている。ずっとずっと待っている。絶対に追いついてこないと知りながらも、ひたすらに待っている。
でも、どれだけ強く願っても夢は現実に追いつけない。
「現実は夢に追いつくのにね」
「それで、本人も知らない間に追い抜くのよ」
「それが大人になった成果?」
「そうかもね」
もしここにタバコがあれば、私は一息に、長く白い煙をくゆらせていただろう。そんな気のきいた演出を望んだのだが、ここでは白い煙はおろか、白い息すらはけない。
そう、ここは冬香の夢だ。
「だからさよならを言いに来たの。私はもう追いつけない。だから私のためにこれ以上立ち止まっていてほしくないの」
悲痛な叫び。冬香の訴えは痛々しくも、弱々しくも、荒々しくもなかったのだけれどもそう表現してもいい気がした。
その叫びに私はまっすぐに答えることができない。
「雪が……雪が私の行く手を阻んで進めないの。でも、行きたい道は険しすぎて雪が道を作ってくれないと進めないの。ね、仕方ないでしょ?」
天蓋一面の星空はまた雪に変わっていた。一メートル先だって見えやしない。亡くした悲しみを埋めてくれるまで雪はやまない……いや、やませない。私は思いこもうとした。
そう、ここは私の夢だ。
月だって欠けさせない。雪で隠れた月が欠けたかどうかなんて誰も知ることなんてできない。箱の中の猫が生きているかなんて箱を隠してしまえば誰にだって調べられやしない。
私には罪がある。だから冬香にさよならなんて告げさせない。
私は再び冬香の腕をつかんだ。真っ白いコートに、見えないはずの月明かりを受け黄色をした小さなしわが入った。
それで悟った。
そう、ここは冬香の夢だ。
「なぞなぞだよ」
冬香はそう言って自らをつかんでいる腕に頬をゆだねた。
「昔、とても仲の良い双子の姉妹がいました。双子はいつも一緒で、好きな人まで一緒でした。でも、双子の妹は不幸にも事故で死んでしまいました。姉は妹の十字架を背負って生きていこうと決めました。さて、妹はそれを喜ぶでしょうか?」
「…………」
私は答えなかった。
私の辛そうな表情を見て冬香は満足そうに笑い、正解を私の腕の上で瞼を閉じながらうれしそうに言った。
「正解はね、『喜ばない』だよ。私たちはもう、二人で一人なんだから」
少し、ほんの一瞬だけ白い息を継いで冬香は最期に言った。
「さよなら、お姉ちゃん」
私の視界は真っ白になって、冬香は消えた。もちろん、雪も月も見えない。
そう、ここは私たちの夢だ。
─────────────
「えらい長く、手、合わせてたな」
そう私の隣に立つ彼は言った。彼はもうとっくに御祈りは済ませ、水気の少し残る桶や花を包んでいた広告を手にして帰り支度を完了させていた。
私はそんな彼に出来る限りのいたずらっぽい笑顔を向けた。
「冬香に自慢してやったの。恋のレースに勝ったのは私だ、ってね。悪い?」
「嫌な姉だな」
「冬香の方がもっと嫌な妹だった」
「どうだったかな」
そう言って方をすくめて見せた彼は冬香の眠る方へ視線を向け微笑んだ。
すると黄色の蝶がどこからか飛んできて冬香のもとに止まった。
「もう春ね」
「何回目の春だっけか?」
「たぶん、初めての春ね」
今年は春が来た。
そう、これが夢を追い抜いた私たちの現実だ。
Winter Alice・完
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