こんにちは!前嶋拳人です。
冷たい水道水のなかに放り投げられた黄色い果実はぶくぶくと小さな気泡を吐き出しながら誰にも見えない底へと沈んでいく。世界がすっかり裏返ってしまったような部屋のなかで私はただ天井のしみを見つめていた。窓の外では見知らぬ鳥が聞いたことのない不穏な鳴き声を残して慌てて飛び去っていく。私たちが当たり前のように信じ込んでいる足元の地面は実はほんの紙一枚の薄さでできていていつ突然に裂けてしまうか分からない危ういものなのだとふと思う。
ポケットの中でずっと鳴り続けている目覚ましの音はまるで遠い海の底から響いてくる鯨の歌声のようだ。手探りでスイッチを切ろうとしても指先がかじかんでいてうまく動かない。時間はいつも一定のスピードで流れているはずなのにときどきひどく歪んで引き延ばされたりあるいはぎゅっと圧縮されたりする。私たちはそんな曖昧なもののなかに閉じ込められて正気を保っているふりをしているだけなのではないだろうか。
部屋の隅に積み上げられた古い本たちは誰も開くことのないままページとページを固く結び合わせてひとつの硬い塊になっていた。そのあいだから這い出してきた一匹の小さな虫が壁を這い上っていく。どこへ向かっているのかも分からないのにただ本能だけに突き動かされて歩き続けるその小さな背中を見ているとなぜかひどく胸が締め付けられるような切なさを覚える。迷うことすら許されない旅を私たちはどれくらい続けてきたのだろう。
鏡に映る自分の顔はいつの間にか自分のものではない誰かの仮面のように冷たく乾いていた。笑い方を忘れてしまった唇をそっと動かしてみてもそこから漏れるのはかすかなため息ばかりだ。それでも世界のどこかで誰かがまだ見ぬ新しい物語の続きを紡いでいるという気配だけがかすかな熱となってこの部屋の空気をわずかに震わせている。凍りついた朝の光のなかで私たちはまだ名前のない明日へ向けて静かに歩き出す。
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