二月十一日

 憂鬱な試験が終わって陰鬱な彼と、ロートレック展に行った。アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファといえばバズ・ラーマン監督の『ムーラン・ルージュ』とジョン・ヒューストン監督の『赤い風車』を思い出す。さたしは後者の方が、主題歌ともども好き。考え方によっては、不具者は五体満足な人間よりも精神的に平静であるかも知れない。『五体不満足』の乙武洋匡はどう言うだろう。わたしのように、見方によっては、ある角度から見ると美人に見え、別の角度から見ると十人並みに見え、また他の角度から見ると不美人に見えるような顔の女は、相手がどの角度から見た自分を本当の自分と思っているのだろうかと、つまらないことで思い悩む。ところが、不具者は、だれが見ても不具者だ。誰も健常な人間とは見てくれない。だから、他人が自分のことをどのように見ているかと、推察して余計なことに頭を巡らせる必要はない。ジャン・ポール・サルトルは誰が見たってシモーヌ・ド・ボーヴォワールよりロンパリだし、だれが見たって彼女より小さい醜男だ。だから彼は他人の視線をあまり気にする必要はなかった。間違ったって、『制服の処女』のロミー・シュナイダーや『シェルブールの雨傘』のカトリーヌ・ドヌーブが彼にほのかに思いを寄せるなどと言うことありえないのだから。彼が文筆に専心できたのは、そのためかも知れない。彼が、『太陽がいっぱい』のアラン・ドロン(同じフランス人でも、何と異なることか!)のような美男子だったら、ジャコモ・カサノバのように、長い長い回想録をしたためていたかもしれない。あるいは、ジャン・ポール・ベルモントやスティーブ・マックウィーンのように気さくないい男だったら人生そのものを活動的に楽しんでいたかもしれない。アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファは、そういう心境で絵やポスターを描いていたに相違ない。いや、そういう心境だったからこそ、絵を描かずにはいられなかったのだ。
 わたしの彼は、いつものように、腕も組まずにバラバラで鑑賞することを望んだ。彼と一緒にいても、わたしは少しも楽しくない。ウキウキするはずのこの種の出会いに特有な、胸の沸き立つ様なものがない。知り合った頃は、それでも、好意を持っていたけれど、矢張りフィーリングが合致しないとダメ。彼は、籠の中のゴールデン・ハムスターのように、回転するリンクの中で円運動をしているだけ。絵画の話にしてもそう。彼は予め回答を用意して、それから唐突にわたしに聞く。
「この絵のどこを見ている?」
 熟考する余裕のないわたしが、時として支離滅裂なしどろもどろの返答をするのは当然のこと。それを彼は、
「違うな、そうじゃないよ」
と言って、わたしを蔑むように、自分の屁理屈を得意げに敷衍する。ところが、彼の話は、下手な役者の死んだセリフのように、聞き手の心に全然染みてこない。
「僕は絵の視点、光源を見る」
 あなたの言の葉は、まるでわたしの心の琴線をつま弾かない。あなたは、国立西洋美術館の前庭にうずくまっているロダンの考える人と同じように「もの」でしかない。ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』のアントワーヌ・ロカンタンが見つめたマロニエの木の根っこのように、あなたは、そこに醜く存在するだけ。わたしの心を乱すこともしないし、わたしの体に触れることもしない。
 あなたは、あなたの生命を賭すような理想を持っていない。あなたはただ、既成の、定年退職まで定められているエリート・コースを歩くだけ。あなたは、世間の選ぶものしか選ばない。本当は、あなたは、わたしが欲しいのでしょう?わたしの全てが。できれば手軽に。
 でも、わたしは、あなたに心を許さない。だから、あなたはイライラしている。もし、そうでないとしたら、あなたは何故わたしとデートを重ねるの?あなたは、手を握ることすらしない。恰も不潔なことをするかのように。でも。あなたも結婚すれば、あなたの奥様と、きっと閨房を共にすることでしょうね。
 あなたはだめ。あなたは失格。あなたには嘘が多すぎるのよ。あなたは、あなたではなくて、フランツ・カフカの『変身』のグレゴール・ザムザのように社会によってつくられた化け物なのよ。他人の目を気にし、自分の生活に囚われている。さようなら。もう、別れる時が来たようね。あなたにこの歌を贈る。
 
  俺は 俺は ムシキング 毎日 毎日 虫かごの中
  段々利口になってきた 無批判 無思想 無責任
  サラリーマンに似てきたよ
  ある日 ある朝 起きてみたら どういう訳か変身してた
  助けておくれと叫んだら
  子供たちがやって来て 俺を箒で追い出した

  なんと 俺は油虫 楕円の背中に 真っ黒い腹
  目のない代わりに髭がある トイレや台所 縁の下
  人目をしのび こそこそと
  何で変身したんだろう この身に覚えが何にもないよ
  この世に神様 仏様
  いるのならばお願いだ もとの姿に変えてくれ

  俺は 俺はゴキブリだ 毎晩 毎晩ゴミ箱あさり
  段々利口になってきた 身の丈 相応 分を知る
  ホームレスに慣れてきた
  ある日 ある晩 夜の散歩 いきなりあたりが騒がしくなり
  誰かが叫んだゴキブリと
  子供たちがやって来て 俺を箒で潰したよ

ライセンス

  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい

土岐明調査報告書『千鶴子の日記』二月十一日

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投稿日:2022/04/01 07:27:50

文字数:2,214文字

カテゴリ:小説

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