「…」
朝焼けの後の地平線の向こうから、大きな乗り物が私の方に向かって来るのを、目を凝らしながらもしばらく疑って止まなかった。
「…な、何?」
凄いスピードで迷いもなくこちらに来るので、私は河の方向を気にしながらそれが来るのを咄嗟に交わした。
「バ、バス?」
まるで河に飛び込もうとしていたかのような、それは勇ましくも無謀に満ちた行動にしか思えなかった。しかし一体どうして、バスがこんな辺鄙な場所を訪れたのか、一向に理解出来ずにいると、運転席付近のバスの扉が開いた。
「あ、いたいた」
バスの中から慌てた顔をした男性が、私を確認するとすぐにバスを降りて私の方に歩み寄ってくると、私を知っていたかのように話かけてきた。
「…橘日和さん、ですよね?」
私は呆気に取られながらも、冷静に今を理解しようと必死だった。
「どうして、私の名前を?…私は、あなたの事を知らないのですが」
そう言うと彼は頷いて、私にこう続けた。
「ボクはただ、日和に会いに来たんだ。日和に会いたい一心で、バスを運転してここまで来たんだよ」
「どうして、バスなの?」
私たちは河川敷の辺りで、バスと河の間に挟まれて一体何をしているのだろうか。
「…やっぱり覚えてないよね、日和が小学校の文集に書いてた夢の話」
「え?」
文集に書いてた内容を、記憶の隅々を辿って必死に模索してみた。しかしながら、そんな記憶を思い出せる訳もなく。
「日和が書いた夢の内容。それは、誰もいない大きな乗り物の中で、大好きな友達と一緒にいつまでも手をつないでいたい、というもの。だからボクは日和に会いに、バスの運転手になりたかったんだ」
彼はストレートに私に想いを伝えつつ、それでもはっきりとした眼差しで私の心を捉えていた。
「…それってつまり、私への告白ですか?」
彼は笑顔で頷いた。
「そう、だから回送バスで迎えに来たんだ」
私は更に理解に苦しんだ。
「いや、あのさ…キミおかしいよ?私にそんな一方的に詰め寄ってきてさ。バスで迎えに来たよって言われても、正直困るんだけど」
彼は少し黙って、こう呟いた。
「うん、知ってるよ、日和が困るのも。でもね、ボクにはあまり時間が残されていないんだ。だから、残された時間の最後に、日和に会いたかったから、ここまで来たんだ」
「残された時間?」
彼はちょっぴり真剣な顔をして、私の顔を見つめていた。
「ボクは小学校の時に、生きていられる限られた時間を医師から告げられたんだ。そしてボクはそれまでの生きる道を、バスの運転手として生きるって決めたんだ。みんなの行きたい場所までボクが連れていく事で、ボクは初めて皆の役に立てるかもしれないって思ったから」
私はふと何かを思い出したように、一点を見つめていた。
「…まさかキミって、小学校の時、休みがちだった…安達くん?」
「ボクは皆と同じような授業を受けられずにいつも一人ぼっちだったから、せめて何か一緒に出来たらなって思った時に日和の夢の話を聞いてさ、ボクはバスの運転手になろうって思わせてくれたんだ。日和がボクの夢のきっかけをくれたんだよ」
私は今、正直大して生きてる実感もなく、何気にしか生きていない適当な人間の大勢の一人でしかなくて。ただそう痛感しても尚、涙が溢れて止まなかった。
「…皆の役になんか別に立たなくていいよ。キミはキミのために、自分のためにこそ限られた人生を懸命に生きてほしいの」
私はどうかしてしまったのかもしれない。彼の中の私なんて、きっとどうでもいいはずなのに。
「それは違うよ、自分のために生きる程空しいものはないって、子供の頃に十分に痛感したんだ。一人ぼっちの時間なんか誰も望まないし、人らしくないんだよ。ボクは命の終わる最後まで誰かのために生きていたいんだ、その誰かの役に立つのなら」
人はいつからだろう、自分のために欲望のために生きていたいと思ってしまったのは。
「…私のくだらない文集がきっかけでバスの運転手になって、皆の行きたい場所まで案内する事で皆の役に立った事を、わざわざ私の所にまで、それを報告しに来てくれたって事?」
彼は改めて、笑顔で頷いた。
「日和にずっとお礼がしたくて、ずっと探していたんだ。しばらくして日和を見つけたから、今日早速日和に会いに来たってわけ」
私は涙拭うと、俯いてから少し微笑んでいた。
「こちらこそ、ありがとう。私の方こそ、願いが叶ったよ…」
彼は首を傾げて、私の言葉を待っていた。
「私の今日の占いカラーね、橙色なの。初めて当たったの」
彼は優しく笑って、バスのドアを開けると、私をバスの中へと誘導してくれた。
「いいの?この後、仕事でしょ?」
「日和を連れていくまでは、このバスはボク専用の回送バスって決めたから大丈夫さ」
私もつい、つられて笑ってしまった。
「私を何処に連れてくの?」
「てか、日和はこれから何処に行きたいの?もしくは、何処に向かいたいの?」
まるで夢が叶ったかのように、私は嬉し涙で彼の運転するバスの一番後ろの座席に座った。
「私は…」
彼と私しかいない橙色のバスは、朝焼けの後の河川敷から何処かへと、向かうのであった。
「最後に役に立てた人が日和で、ホントに良かった」
「私なんか、キミの役にも立てないで…泣いてるだけの弱虫な私なんかに…」
そして、そのバスが次に停まる停留所は、私のどうしても行きたい場所。
彼の役に立ちたい一心でその場所を伝えたとしても、彼と一緒にそこを訪れる事は決して出来ないと分かっていた。
彼に流れる時間より私の行きたい場所までの道のりが遠かったのが心残りではあるけれど、彼は最後まで私に笑ってくれていた。
だから、少しでも彼の役に立てるのならって、後になってそう思えてきた。
「…私の行きたい場所は、ね?」
「うん」
そんなやり取りがとても和やかで、彼の淡く深い優しさが、ただ悲しかったんだ。
「私の行きたい場所は…」
世の中のどの位の人が自分のために生きてるか確かめたくもなるけれど、私はそれ以上に彼がどのくらい人の役に立ちたがっていたのかが、単純に気になっていた。
「日和の行きたい場所に連れていくよ?何処まで行こうか?」
彼に何度も同じ事を聞かれても、私は彼にその場所を伝える事が出来なかった。
「やっぱり、行きたい場所なんてないよ。私なんかを何処へも連れていかないでいいよ…」
そう、いつも私は彼に意地悪を言うんだ。
その後に彼がなんでだよって、私に言葉を重ねる度に私にはそれがとても心地良かったから。
彼と出会った、あの時代を卒業して。
すぐに私のそばから彼がいなくなってしまってから、私はどうかしてしまったんだ。
当時のその悲しみを忘れようとね、人を好きになるのを辞めようとさえ思ったの。人を好きになる度に、彼と同じ悲しみが訪れるのが怖いから。
だからもう、人を好きになるなんて二度としないって、勝手に決めつけたんだ。
ね、どうかしてるでしょ?
「…バスに乗って迎えに来てくれる、こんなくだらない妄想でも、キミが笑ってくれるならさ。私、日課にするね?」
目の前の朝焼けは、彼との思い出に溢れたパレットのように。今もあの頃のように、色付いているんだ。
私の所にだけ、ね。
彼のいなくなった放課後の教室に、優しく靡く橙のカーテンを呆然と見つめていた。
あの頃の私を、そっと重ねながら。
今日も、キミを想うよ。
例え、それが妄想だとしてもね。
キミがそれを望まないと、分かってるのに。
分かってるくせに。バカみたい。
それでも、私にとっては。
とっても大切な、日課だから。
大切な、日課だから。
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