ドアを蹴破ったかのような音に驚いた男は、弾かれたようにそちらを振り返った。
事態を把握すると向き直り、はにかみながら目の前の魔女を見すえた。
「…いいのかい?」
「何が?」_
魔女は本当に何事も存ぜぬと言った様子で紅茶を口に含んだ。
男は困ったように眉をひそめて、自分の瞳とよく似た色のティーカップの底を見る。
「彼は、」
告げていいものか否か。
あえて超えないようにしている壁の問題に、自分が入り込んでいいものか。
視線を彷徨わせた先で、クッキーに手を伸ばした魔女と目が合う。
観念した男は、噤んだ口を再び開いた。
「彼は、君の可愛い使い魔は、僕と君の中を誤解したようだけれど―――、捜してやらなくていいのかい?」
「いいの」
あまりに簡単な魔女の言葉に、男は目を丸くした。
「帰ってこないかもしれないよ?」
「平気よ」
魔女の穏やかな光を宿した瞳が男を射抜く。
「だって私の下僕だもの」
何事か口にしようとした男だったが、結局言葉を飲み込んで一言、
「…そうかい」
とだけ呟いた。
男は彼女の瞳に映ったまた別の感情を黙殺し、冷めた紅茶に口をつけ飲み干す。
「さて、じゃあ僕はもう帰ることにするよ」
「あらどうして?気分を害してしまったの?」
立ち上がるそぶりを見せながら、いいや、と男は頭を振った。
「これ以上ここにいるのはなんだか野暮な気がして」
魔女は何も言わず目を細め、男は玄関へ向かって歩きはじめた。
「使い魔君を、大事にしてあげないとならないよ」
玄関先で、男は諭すように告げた。
「僕には、彼の気持ちがよくわかるんだ。―――それじゃあ、また」
「ええ、またね」
片手を上げて去った男を見送ったシエルは、少しの間空を仰いだ後、ゆっくりと踵を返した。
深夜。
開け放された窓からは月光が差し込み、かの魔女の顔を鮮やかに照らし出していた。
穏やかな風がカーテンを揺らす。
――と。
窓辺に現れた大きな影が、月の光を遮る。
影はゆっくりと、音一つ立てず部屋の中へ降り立つと、少しの間横たわる魔女の顔をじっと見つめていた。
自分の事など少しも気にかけず、いつも通り眠りにつくその姿に、言いようのない寂しさと虚無感が拭えない。
俺のことはどうでもいいのか。あの男の方が、いいのか。
ああ、俺の気も知らずに。
ふわりと吹いた風に柔らかな黒の羽が舞う。
影はやがてゆっくりと動きだし、覆いかぶさるようにして魔女の顔を覗き込む。
―――気づいて、しまったんだ。
いいや、気づいていたけれど分からない振りをしていた感情を、受け入れてしまったんだ。
気づいて、しまったんだ。
自分の中に初めて芽生えた、『嫉妬』という感情のせいで。
影の右手が、そっと魔女に伸びた。
おそるおそる。
おっかなびっくり。
触れていいかどうか、躊躇うような素振りで。
白く艶やかな肌に、触れかけた。
「遅いわよ」
穏やかな声色に感情が昂って、つい封じ込めていた衝動を解き放ってしまいそうになる。
「今まで何をしていたの? クラウ」
最後に名前を呼ばれたのがもう何か月も前だったような錯覚。たった数時間、時を共にしていなかっただけなのに。
「……シエル、俺はどうすればいい」
行き場をなくして彷徨っていた手に、シエルがそっと触れて、指を、絡めた。
「どうもしなくていいわ。だってあなたは、私の下僕」
下僕。
主人が赦すまで、自由になることはできない。しかしきっとこの魔女は、もう自分を放してはくれない。
それがわかっていて尚、この手の温もりが愛おしくて、離したくなくて、たまらなかった。
「あなたの心は私のもの。そうでしょう?」
熱を帯びた青の瞳が、俺を射抜いて逃さない。
「―――、俺のマスターは、俺の心さえ自由にしてくれないのか」
魔女の視線がそれることはない。
「当たり前だわ。だってあの時から、あなたの心と体は私のものになったんだから」
その言葉に宿る、とろけるような甘い響き。
いつから俺は毒されていたのか――、この魔女の所有物であることを嬉しいとさえ感じ始めている。
「俺は、」_
手をさらに深く絡める。弄ぶようにしたあと、握り返す。
――引き寄せらて、顔が近づく。
「逃してなんて、あげないわ」
そう言って、シエルは彼にそっと口づけた。
衝動を抑えることができず、烏は主人を抱き寄せる。
小さな烏が選んだのは、
魔女の下僕と成り下がる道。
とある国に、『癒しの魔女』と呼ばれる者がおりました。
彼女はそれはそれは怠惰な魔女でした。
いつしか、彼女の側には常に黒い影が寄り添うようになりました。
影は自ら言いました。
自分は"魔女の虜である"と。
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