そう、あっという間だった――たとえ彼といえど、これまでやってきた仕事と何ら変わりはない。
所詮彼らも花街に女を買いに来る道楽なのだ。
リンは自身に言い聞かせ、用意が整ったらしいとの耳打ちに対して頷いた。
さて勿論のことだが、少佐は姐の所へと連れていかなければならない。しかし、この男はどうしよう。
打算で動くのならば此処でリンの客にしてしまえばいいのだ――先程からずっと頭の隅で囁き続けていた自己が、いよいよもって嘲笑うようにリンに近付く。
姐だってそれを望んでくれているだろうことは、この場にいた時の態度からも察しが付いていた。
「姐さん」
ふいに禿に呼ばれて、顔を上げる。
少佐のことは自分たちが連れて行くので任せて下さい、と。
――妹分であった彼女たちからもそんなことを言われてしまっては、逃げ道なんてないじゃないか。
「では少佐さん、私はこれで失礼致します」
「ああ、君の歌声も素晴らしかった…私はミク一筋なのだが、それでも良い余興になった…」
リンが頭を下げると、少佐は快活に笑ってそう言った。
他の花街と同様にこの街においても、一人の遊女の馴染み客となると他の遊女の元に登楼してはならないという不文律が存在する。
自分が知らなかっただけで、この男は既に姐の馴染みという訳か。
謙遜をしながらも頭を働かせ、リンは流石だと姐への尊敬心を一層深くする。やはり姐は、なんて器量の良い女郎なのだろうか。
「ああそうだ、神威。私はミクの所に行くが、お前はこの娘に相手をしてもらえ。
リンと言ったか…構わぬな?」
すると男は少尉を見て言い、リンに尋ねた。
この場合、尋ねたのはリンの意思ではなく彼女が物理的に客を取っても可能かということである。
まさか客の方から申し出されるとは思っておらず――粋な客とは欲望に関して寡黙であるべしと言われるものなので、そうそう自分からそのようなことを言うことはないのだ。しかも男はリンの尊敬する姐の馴染みであるというのだから、余程の客かと思っていたというのに――リンは少しばかり驚きつつも、はいと頷いた。
リンには意思による逃げ道など、最初から残ってはいなかったのだ。
「なっ、しかし――」
神威の戸惑ったような言葉を聞きつつも、浅はかにも願いなどを掛けた己を心中で自嘲のように笑った。
「神威さんは…私のような者では御不満でしょうか?」
最初から、そうしてすっぱりと諦めてしまえば良かったのだ。
リンとて男に媚を売る手段くらい、もう幾つも知っている――この男も同じだ。
上目遣いに見れば神威は困ったように眉尻を下げて、そういう訳ではないのだと釈明のような声を上げた。
こんな、何度と聞き飽きた台詞。
花街において粋な客を装おうと必死な男らは、遊女の方が頼むよう仕向けたいのか欲望をひた隠そうとしては失敗し、皆が同じように“遠慮”を何かと取り違えているのである。
なんて莫迦な男たち。
リンは心の中で、結局この男とて同じなのだと今度は神威を嗤った。
――結局オトコなどは皆、欲の業には勝てないのだ。
「ならば遊びも良かろうよ、神威。では私は行くからな…また明後日にでも」
少佐は無様な部下の態度に業を煮やしたのか――ただ単に、早く姐の元へ行きたい為だけのようにも見えるが――そう言って。
リンを一度見てから、禿たちを連れて部屋を出た。
「ちょ、少佐…」
神威は未だ腹を据え兼ねるのか出ていく少佐に対し声を掛けたが、そんなものに返事など返ってくる筈もない。
「神威さん」
「え、ああ…すまぬな、リン。少佐も何を考えているのか、唐突に連れて来られたと思えばこのような…」
「いえ、あの」
「私には、遊郭と呼ばれるものが未だあったことさえ驚きだというのに…」
なんとか本題を持ち出そうとするリンの言葉――いつだって感情と義務は別の所にあるのだから、それくらい慣れている――をロクに聞いている様子もなく、男は独り言のように呟く。
「ああ…」
その言葉に、リンは神威には聞こえない程の声で、得心が言ったと息を吐いた。
始めからおかしいとは思っていたのだが、成る程この男は廓の存在さえも理解していなかったのだ。
やれ明治だ文明開化だと表では叫んでみても、明るく治めるには影の存在など必須。
この年で尉官であることといい、きっと軍部に力のある家でぬくぬくと育った男なのだろう、何も知らないのだ。
――などと蔑んでも、リンとて二年前まではこのような街の存在さえ知らなかったのだが。
「それも、リンのような娘が…悪いな、全く以て少佐も何を考えているのか、まだこのように幼い少女に」
しかし、それが何も知らずに生きていた昔の自分と重なったことがリンには不快だった。
彼は何も知らない。
ならばそのまま、知らないままに帰してやればいいのだ――この夜の影さえ落ちぬ、男のいた明るい昼間の世界に。
一度の女遊びくらいなら連れて行っただろうが、あの上司とてそうそうこんなカタブツを連れ回そうとは思わないだろう。
輝かしい経歴の並ぶであろう男の人生の中で、一度くらい遊郭を訪ねたことがあるという経験があったとても、これから先それがさした障害になるとも思えない――ただの人生経験だ。
逃がしてやればいい。
この男が、リンのように人間に失望してしまう前に。
返してあげよう。
闇に囚われてしまうのは、堕ちた自分と堕落しきった男たちだけで十分だ。
ココロはどうして
ヒカリを愛しいと思うのに
同時に憎んでしまうのでしょうか
「神威さん、違います」
自分でも驚く程、水を切るように静かな声が出た。
けれど愛憎とはよく言ったもので、リンは確かに神威を眩しいと思う程に、彼が本当に純粋で綺麗なのだと思う程に。
――同じと所まで墜ちてきてくれれば良いのにと、堕としてしまえば良いのにと。
ああ醜い、なんて醜いのだろう。
「リン?」
同じなのだと、思い込もうとしていたのだ。
彼だって他の男と同じように、女を欲する汚い動物なのだと。
思い込んで優越感を得ようとしていたのだ、だって自分にはそれ以外に男を見る目も紡ぐ口もない。
媚を売る目と唇と――いや、本当に彼らが欲しているのはそれよりもっと下。
他にないのだ、この感情をどうして仕舞えば良いのかも分からない。あの日からずっと、男に対して想う感情の全てが侮蔑だったのに。
この男は、それをさせてはくれないから。
「私は、あなたの思うような綺麗な幼子ではないのです…」
それならば。
「何をしている!?リン――」
神威の声を聞きながら、全くだと自嘲する。
布団さえないこの部屋で。
「…」
勿論リンとて、こんな所で体を開くつもりなどはない。
大体、このような場合とて相応の順序を踏んでやらなければ楼主に後で小言を言われる――そんなことは面倒この上ない。
だから、これは賭けであり脅しなのだ。
「これで――お分かりですか?」
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