それは、心を震わせる。
それは、心をざわめかせる。
そんな、落ち着かない感情の名前を、僕は何と呼ぼうか?
……漣 四……
戻って来た屋敷は、出て行った時と変わらず、静寂の中に沈んでいた。
「少し…遅くなったな……」
もう一度、懐中時計を確かめる。
もう日付は変わって随分過ぎている。いつもに比べると、とても遅い時間だ。
それでも、彼がいつも出入りに使っている門も扉も開いていたのは、誰かが自分が出て行くのを見ていたためだろう。
それは、いつもと変わらない状況だった。
なので、漣も何の疑問も持たずに、小さな門から屋敷の敷地の中に入った。もちろん、自分が入った後は、中から南京錠を掛ける。それから、さらに屋敷の中に入ろうとした時だった。
「おかえり、漣。遅かったね」
「…!若旦那様……!!」
覚えず、上擦った漣の声に、屋敷の扉の前に立っていた青年の方が苦笑いを浮かべる。
「全く……その、若旦那、って呼び方。いい加減に何とかならないのかい?」
青年の顔には不快な感情は一切浮かんでいない。
それどころか、どこか楽しげだ。
しかし、漣は「遅かったね」という言葉に身体を硬くしてしまった。
「もっ……申し訳ございません……っ!!こっ…このような時刻まで……!!」
眼に見えて身体が震え出す。自分をここまで育ててくれたこの屋敷の人間に対し、漣は決して迷惑をかけてはいけなかった。それは、彼にとって何よりも優先されるべき絶対の事であったのだ。
それなのに……。
「そんな事は気にしていないよ。…もちろん、無事に帰って来てくれたからこそ、だけどね?」
「……っく…!」
口唇を噛み締め、俯く漣に、青年はやがて小さな溜息をつくと、静かに近づいてきて、優しく漣の頭に手をあてた。
「……全く、本当に漣は真面目だね」
「えっ………」
「遅く帰って来た事を咎めるために、ここにいたわけじゃないよ?それどころか、漣がそんなに夢中になれる事があるのは、嬉しい事だ」
青年は、優しく微笑んだ。
彼は、漣を引き取ってくれたこの家の当主の実の息子である。歳をとってからの息子で、漣とも年齢が近い。
漣からしてみれば、恩人の息子であるので、当主と同じくらい敬意を払うべき相手であるのだが、どうも相手にはそんな気が全く無いようである。
青年は漣の事を本当の弟のように思って接してくれた。
屋敷に引き取られてきた当初、声すら出なかった漣に根気強く喋りかけてくれたのも彼だった。
無気力で、食べる事にも寝る事にも興味を示さなかった漣を知っている彼は、当主と同じくらい漣の変化を喜んでくれる。
それにしても、こんな時刻まで出歩いている自分を、全く咎めないとはどうした事だろうか。
僅かに漣が視線を上げると、夜の闇のせいばかりでは無く、青年の顔が青褪めているように見えた。
「……若…」
「漣、少し、サロンの方へ来てくれないか?」
突然の申し出に、漣は何度か瞬きをした。
「……サロンですか…?」
西洋文化が浸透してきた昨今、自宅にサロンと呼ばれる遊戯室を設えるのは、ちょっとした流行になっていた。
この屋敷のサロンは、十数人が集まっても大丈夫なだけの広さと共に、音楽が楽しめるようにピアノが置かれている。
つまり、防音効果の高い部屋というわけだ。
「…少し、漣のバイオリンが聴きたいんだ……」
そう言った青年の顔は、いよいよ白く霞むようであった。
音も無く開いた正面扉を潜り抜けると、その先は広く開けた大ホール。靴のまま、絨毯を踏むのが躊躇われたのは、もう昔の話だ。
美しくシンメトリーを描く大ホールに向かって右側に、更に奥へと続く廊下があり、その一番奥がサロンになっていた。
いくら防音効果が高いとはいえ、やはり各自の私室のある棟とは反対側に設えてあるサロンに入ると、フワリと暖かな空気に包まれる。どうやら、暖炉の火が入れっぱなしになっていたようだ。いや、予め入れてあったといった方が正しいか。
何となく薄暗く感じるのは、元々この部屋の照明の数が少ない事に由来する。
そのにぼんやりと浮かび上がるのは、濃緑の天板が美しい撞球台と漆黒を閉じ込めたピアノ。あとは、少人数で囲める卓と椅子。これは遊戯札で遊ぶ時に使うらしい。そして、歓談用のソファーと背の低い机。
青年は迷う事なく、暖炉の傍にある歓談用のソファーのうち、一人掛けのものの一つに腰掛けた。
「すまないね、ワガママを言って」
「いえっ……!!とんでもありません…」
しばらくサロンの中を眺めていた漣であったが、青年の声に慌てて傍の撞球台の上にバイオリンケースを置き、中から濃い飴色の楽器を取り出した。
手早く弦の張りを確かめ、そっと音を確かめる。
「……何を?」
「…何でもいいよ…」
青年はすでに、背凭れに身体を預けて瞳を閉じてしまっていた。だが、その姿は漣のバイオリンを子守唄に眠ってしまいたいようには見えなかった。
漣は、脳裏に浮かんだ音をそのままバイオリンに乗せた。もちろん、著名な作曲家の曲も好きだったが、漣はもっぱら自分の中に浮かぶ音をそのまま表現する事が多かった。
それは、もしかしたら、遥か昔に聞いた事のある音楽かもしれない。なので、完全に彼の自作の曲かどうかは、彼自身にも分らなかった。
静謐な空気を決して壊さず、まるでその柔らかな隙間に緩やかに沁み込むように、バイオリンの音色が流れる。
天窓から、僅かに零れる月の光が、音の一つ一つを煌めかせるようだった。
しばらくして、ふっと青年が口を開いた。
「…優しいな…………」
「えっ……?」
一瞬、手が止まる。
「……今日の漣の音は、いつにも増して…優しい」
青年の瞳は、いつの間にか彼の瞼の裏では無く、どこか遠い場所を見つめていた。
「……そう…でしょうか…?」
「あぁ……何か、素敵な出逢いでもあった…かな?」
悪戯っぽく微笑む顔に、漣は思わず息を飲みバイオリンを握りしめてしまった。
「あっ……あっの………」
「ふふっ、冗談だよ」
そう言いながら、声色はまったく冗談だとは思っていないようだ。だが、それ以上、青年は何も問わなかった。そして、再びゆっくりと瞳を閉じた。
「………羨ましいな……」
「…えっ……?」
「……………大切に、しなさい……無くして、しまわぬように………大切に、守りなさい」
漣は、ゆっくりとバイオリンを下ろした。
その言葉を一つ一つ噛み締め、意味を咀嚼しようとして…。
「……ぁ……」
漣は、口を噤んだ。青年の頬を、一筋、星のように煌めくものが流れたのだ。
「………若…旦那様……?」
しかし、青年はそれ以上、口を開く事は無かった。
◇ ◇ ◇
麗かな陽射しの溢れる朝。
良家のお嬢様たちの朝は、駒鳥のような囁きで始まる。
「ご機嫌よう、綸様!」
「…ご機嫌よう、愛美様」
女学校に向かう石畳の上、駒鳥たちは思い思いに囀りながら坂の上を目指す。
その日、綸に一番に話しかけてきたのは、級友の愛美であった。
大きな瞳に快活な性格、そして、彼女は綸の親戚にあたる鳴子を心底尊敬していた。
『これからの女性は、強く賢くあるべきである』と、老舗の呉服屋の跳ねっ返り娘は、綸の事も大好きであった。
「ねぇねぇ、綸様ご存知?」
そして、彼女は噂話も大好きだった。
「…何かしら?」
綸はあまり得手では無かったが、聞かれれば気になるのが人の性である。それが例え、ちょっと寝不足の朝であれ……。
「流歌お姉様のお話………」
「御機嫌よう、綸様、愛美様」
「あっ……!!」
「御機嫌よう、流歌お姉様」
淡い桜の色をそのまま閉じ込めたような少女が、ゆったりと二人を追い抜いて行く。
背も高く、凛とした空気を纏った彼女は、下級生たちに挨拶をされつつ、それらに丁寧に一つずつ返しながら、少女は校門へ向かって歩いて行った。
その後ろ姿を、綸と愛美はじっと見つめ、それから小さく息を吐いた。
「…びっくりしたぁ……」
「……やっぱり、噂話は、よくありませんわね……」
「………でも、やめられないのよねぇ…」
愛美の口調がざっくばらんなものになる。彼女は、元々そういう性格である。もちろん、学内ではそうはいなかい。
何せ、『良き妻、良き母』を育てるための学校だ。
彼女たちに声を掛けてくれたのは、巡音流歌という名前の少女である。最上級学年の首席生徒で、その美貌も相まって、女学校内で一番の知名度と人気を誇る生徒だ。
「…そう、流歌お姉様ね……、どうやら………」
もう流歌の背中は遥か彼方だというのに、愛美は綸にこっそりと耳打ちした。
「えっ……?!」
綸が、思わず愛美を見る。愛美は、何度も頷きながら言った。
「でもね…確かに、しょうがないかな……って」
「……でも…」
「…ほら、流歌お姉様のご実家って…まぁ…ほら、一般のご家系だし………」
愛美は、小さく溜息をついた。
「本当、この世界は無情よね……」
そんな世の中を変えたいわ、といつも眼を輝かせている同級生は、今日ばかりは何とも切実な顔で呟くのだった。
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