「あら、公爵様、お顔の色が優れないようだけど、どうなさったの?」
廊下で女に見咎められ、ヴェノマニアは内心ため息をつく。
「何でもない。少し…寝苦しかっただけだ。」
適当に答えると女はクスクスと笑う。
「お可哀想。私なら夜も気持ちよく眠らせて差し上げられますのに。」
そう言って頬に啄むようにキスを落とすと、女は「気分が良くなるおまじないです」などと微笑んでその場を立ち去った。
「ほら、大丈夫だ。今の僕には愛される力がある…」
女のキスの跡をそっと撫で、ヴェノマニアは呟いた。
◇
休憩時間の労働者階級の集まる路地で、人目を避けるように暗い場所で話をする二人の人間がいた。
「おい、本当にやるのか。相手は貴族様だぜ?もしお前の勘違いだったりしたら…」
「勘違いなものか、あいつに抱かれて屋敷に入っていくミクリアを見た人間が居るんだ。ミクリアはあの悪魔にたぶらかされたんだ…」
心配そうに声をかける友人を振り返る事もなく、その人影は答える。
その手元では何かが怪しげに光っている。
「だからって、一領民のお前が貴族相手にもししくじったりしたら…」
友の手を振り払いその人物は静かに自らの固い決意を述べた。
「ミクリアさえ帰ってこられれば俺の命なんていくらでもくれてやるさ。その為に大枚はたいて用意してるんだ。だからお前はもう口出しするな。」
◇
ヴェノマニアは書斎で本を読んでいた。
元々今日は特に予定はなかった。所領地の農民の様子でも見に行こうかと思ったがそんな気分でもない。
小説、歴史書、芸術評論、様々な本を棚から抜き出し、気になる項を読んで戻す。そんな事で時間を潰した。
後でもう一度地下へ戻ろう。グミナが目覚めているかも知れない。
ページを繰りながらそんな事を考えていると玄関の呼び鈴の音が屋敷中に響いた。
ヴェノマニアが対応に出ると、そこには女が一人立っていた。
ゆるくウェーブした淡い金髪、深い海を思わせる青い瞳、胸の前で手を合わせたまま女がおずおずと口を開いた。
「初めまして、公爵…様」
美しいか細い声にヴェノマニアはにやりと笑う。
「いらっしゃい。美しい人…」
腕を広げて近付いてくる女を抱き締める。
ほら、今の僕には訳無いこと…
そう微笑んだ瞬間、胸に激痛が走る。
「な…」
抱き締めた女を見ると、こちらを見てニヤリと笑っている。そこに先程までの清楚な雰囲気はない。
「さようなら、公爵様。労働者階級の若造の割にはなかなかの演技だったでしょう?」
そう言って腕を振り払った女はもう「女」ではなかった。
青い髪、青い瞳の青年が崩れ落ちるヴェノマニアを見下ろしせせら笑う。
その右手に赤く濡れたナイフ、左手に金髪のウィッグが握られているのに気付いた頃にはヴェノマニアは床に倒れ込んでいた。
「女にとってあんたがどれだけ魅力的かなんて俺には知ったこっちゃないけどさ、人の物を盗るからそんな目に逢うんだよ」
そう言い残し男は屋敷の中へ入っていく。
「ぐ…っぁ…」
何とか立ち上がろうとするが何処にどう力を込めれば良いのかすら分からない。
ただ鼓動に合わせて流れ出る血液は自分の命の欠片のようで、流れるほどに命の終わりを冷淡に伝えてくる。
血と汗にまみれヴェノマニアは力なく倒れ伏した。
それとほぼ同時に、屋敷の中がにわかに騒がしくなった。
地下の娘達に解放の時が訪れたのだ。
余りの騒がしさにグミナは目を覚ました。
頭がかつてない程すっきりとしている。まるで憑き物が落ちたようだ。
ベッドを抜け出し部屋のドアを薄めに開ける。
そこでグミナは目を丸くした。
廊下を何人もの女が駆けている。
ある者は泣きながら、ある者は愛しい人の名を呼びながら。
よく分からないままにグミナも引き寄せられるようにその走列に加わった。
開け放たれたままの玄関が見える。そしてその前に倒れたままの紫の男が。
「カムイ…?」
彼女の口から幼馴染みの名が零れる。
紫の流れるような総髪は、確かに見覚えがあった。
女達の後を追い玄関扉を走り抜けながら、ちらりと振り返った。
しかしそこに倒れていたのは血と汗にまみれ声にならない叫びをあげる見知らぬ男だった。
あれは助からないわね…可哀想に。
ふいと顔を背けるとグミナはそのまま屋敷を後にした。
そして全ての者を見送ったとでも言うように屋敷の扉がゆっくりと閉まった。
待って、待ってくれ。
動かない体でヴェノマニアは必死で叫んでいた。
しかしその叫びは声にはならず、空気の漏れるような音がするだけだ。
彼の両脇を女達が脇目もふらず走り抜けていく。
まるで彼など視界に入っていないように、ただ一様に出口だけを求めて。
待ってよ、一人は嫌だ。誰か…
彼の声が聞こえたのか否か、彼の横をすり抜けた娘が振り返った。
「グ…ミナ…」
愛しいその名を呼ぶも、ヒューヒューと言う空気の音しか聞こえない。
待ってよ、ずっと言いたかった事があったんだ。
君に釣り合う男になれたら言おうって、ずっと思っていた事があるんだ。
嫌だ、こんな筈じゃなかった。
どうして、まだ君に何も言えてない。
こんな筈じゃない、こんなつもりじゃなかった。
僕はただ…
君に振り向いてもらいたかっただけだったのに…
「グ、ミ…」
再度呼び掛けるがその声は届かず、グミナは表情も変えずに前へ向き直り、そのまま屋敷を後にした。
「ぁああああああ!!」
声にならない叫びは閉ざされた屋敷の中へ消えていく。
残り少ない力で必死で持ち上げていた顔と左手から力が抜けた。
その瞳はもう何も映してはいない。
薄れゆく意識の中、覚束無い思考の中で彼は自らの情欲を呪った。
なんて愚かだったのだろう。
真に愛する人に思いすら伝えられず、紛い物の愛で多くの人を傷付けた。
それでも求め続けざるを得なかった。
当たり前だ。僕の周りには嘘しかなかった。
だからいつまで経っても満たされないし、自分すら嘘になっていった。
僕は当然の報いを受けた……
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