例えば、昨日まで隣を歩いていた君が、遠くに感じるようになった時。
例えば、久しぶりに会った君の背が、私を見下ろすくらいに変わっていた時。
どれだけ親しくても、長い年月がその関係を変えてしまうことは人生においてよくあることだ。
勿論それが悪いこととは限らない。より距離が縮まることだってあるし、会わなかった時間がそうさせたように、今後疎遠になっていくことだってある。
私の場合は……少なくとも、私にとっては良くないことだった。
この間まで十センチ隣で笑っていた彼は今、数メートル先の教壇に立っている。
仲良くなった彼は当時、同じ通学班の班長を務めていた。
私たちの班は年が近い子どもが少なく、それ故に幼馴染と呼べる人間も限られていた。
彼はその少ない幼馴染の一人だった。
面倒見が良く優しい彼が、はぐれないようにとよく手を握ってくれた。
それがきっかけなのかはもう覚えていないけれど、私は彼に懐いた。彼と一緒に遊ぶようになった。
学年がいくつか離れていても、よく勉強を教えてくれた。
彼が制服を着るようになる頃、相変わらず私は勉強を教えてもらいに彼の家に通っていた。
何一つ変わらないはずだった私の世界。
彼の声が変わり始めて、今いる彼が消えていなくなるんじゃないかと心配したことがあった。
声が聞こえなくても、目の前には俺がいるよと撫でられた頭。
ほっとする私に対して、彼はどのように思っていたのだろうか。
彼が大学に進む頃には、私もすっかり制服が似合うほど背が伸びていた。
背が伸びたといっても男性である彼には敵わない。彼の目線は常に私の頭の上にあるのだ。
なりたい職業のためか、彼の教え方もよりわかりやすく要点を押さえたものになっていた。
私が問題を解けば、すっかり低くなったその声と、もう繋いでくれない手のひらで私の頭を撫でる。
彼に褒めてもらえるのは嬉しい。
だけどいつまでも、子ども扱いのままでは不満も溜まる。
それは仕方のないことかもしれない。
だって彼にとって、私はいつまでも「手のかかる、年下の幼馴染」だろうから。
私から、その関係を変える努力を怠った。
子ども扱いしないでなんて思う反面、ずっと彼の隣にいられることに喜ぶ自分がいる。
彼は私にいろいろ教えてくれる。だから彼の一番になったつもりでいた。
与えられるだけの優しさは、ただ義務感かもしれなかったのに。
そして十七歳の今、彼は私たちを導く職となり、私の前に現れた。
先日まで下の名前で呼んでくれていた声は、流れるように出席名簿を読み上げる。
呼ばれる名は、苗字のみ。その違和感に慣れず、何度も彼の指摘に反応が遅れてしまう。
反面、彼は私に先生と呼ばれても、すんなりと振り返る。ああ、彼は私よりずっと大人だ。だってこんなにも切り替えが上手なのだから。
「あ、がっく……か、神威先生」
「なあに?巡音さんは、今日も個人授業がお望みかな」
「えと、ちが……やっぱりいいです。たまには一人で図書室にでも行きますよ」
「へえ。それはいいことだ。静かだからより集中できるだろう。……ああ、勿論分からなくなったら聞きに来てもいいんだよ」
最後の声を無視して彼の隣をすり抜ける。
胸元で揺れるリボンを見つめながら、ノートを片手に一人図書室へと向かう。
この学校の図書室は、本の品揃えが良いとは決して言えない。
だからあまり人気がなく、図書委員は幽霊委員がほとんどともっぱらの噂だ。
貸出用カウンターに人はいない。
鍵が開いているだけで、仮に本が数冊持ち出されたとしても、誰にも気づかれないような不用心な管理。
遮光カーテンが引かれ、少し奥の棚に隠れた机には、私が持ち込んだ原稿用紙が数枚置かれている。
彼が教師になってから、個人授業をしてもらうお願いはすっかりしなくなった。
しないというよりはできなかった。だってそれは、今までの関係からすれば、先生と生徒の距離にしては近すぎるから。
彼は「今日も」なんて言っていたけど、もう数週間はそんなことをしていないのを彼は理解している。
三年生は最後の試験も終わって、進路が決まっている子はもう気楽だけど、彼の方も仕事が立て込んでいるらしく、気軽に話しかけることなんてできなくなっていった。
私は、何のために自分をよく見せようとしているのか。
薄々は分かっている。きっと昔から、真っ直ぐ私を見てくれる彼に憧れていたのだ。
それは身近な大人に抱く憧憬そのもので、初恋なんて言葉で着飾る勇気はなかった。
彼は今、一人の大人だ。もう私一人だけに優しさを注ぐなんてことはしてくれない。
それなのに私は彼の優しさが欲しかった。私だけの彼でいてくれたのなら、それはどんなに素敵なことだろう。
日の傾いた図書室、古びた引き戸を開け、一人分の足音が近づいてくる。
棚を掻き分けてやってきた彼の顔には、先ほどと違い何の表情も浮かんでいない。
「一人で勉強、なんて様子じゃないね。考え事でもしてた?」
「考え事……ええ、考え事です。でも考えたって終わらないんです。だからなるべく気をそらして、頭の中を空っぽにしたいんですけど……ダメでした。やっぱりそう簡単に消えてはくれなかった」
「君の心を曇らせる、悩みの種はいったい何かな」
「他の誰でもない、私の大切な人のことです。その人は困っている私に手を貸してくれて、ずっと隣にいてくれたけど、誰にでも優しいから手が届かない」
古びた椅子の背を撫でて、彼の方へと歩みを進める。
対する彼は決して揺らがない。まるで一切の感情をそぎ落としたかのように、こちらを真っ直ぐに見据えている。
「ずっと彼の横顔を見てきました。目の前のことに一生懸命で、目に見える全てを受け入れる彼が、年月を追うごとに私を見ないなら良かった。だけど今までずっと隣にいた義務感からか、彼はまだ私を手の届く場所に繋ぎ止めているんです。手のひらから溢れそうな一雫になって、中途半端な優しさが、かえって苦しかった」
そっと手を伸ばして彼のネクタイに触れる。
歪な結び目が出来上がる毎に笑い合って、私がそっと直していた青色のネクタイも、今はもうすっかり上手に整えられている。
「私を見守るのがただの習慣だとしたら、そんなくだらないことは今すぐ辞めてと問い詰めたいくらい。だけどそれを突き付けて、これから一人でいるのは耐えられない矛盾に、どうしようもなく腹が立つんです。一つの意見すらまともに押し通せない私が、彼に別れを告げる資格はないし、そんな勇気もない」
行き場のない感情を乗せた、この情けない表情を見られたくなくて、彼のワイシャツに顔を隠した。
高まることのない規則的な鼓動。ああ、やっぱり私に何の感情も抱いてはいないのだろう。
「少しずつ変化していく彼が、見慣れたはずの横顔が、もう私の知らない大人になっていくんです。そんな彼は知らなかった。知らない知識を得るたびに、今までの彼が消えていくんじゃないかって。ねえ、答えてください。今でも私を『見守るべき幼馴染』として見ているなら、もう中途半端に私に構うのはやめてください」
握りしめたワイシャツに皺が寄る。
いつも丁寧にアイロンをかけているだろうその部分は、私が歪めてしまった。
堪えきれなかった涙が視界に滲む。
ああ、こんな無様な姿を晒すくらいなら、言わなければよかったのだ。
彼だって急に何を言っているのだと思うだろう。
手のかかる子、面倒な子だと思われているかもしれない。
それも仕方ないだろう。間違いなく今私がやっているのは、子どもが押し付けるただの我儘であり、八つ当たりのようなものだから。
「ずっと考えてきたことがある。年の離れた君は、俺にとって一体どんな存在なんだろうとね」
暖かな手が、私の髪を撫でていく。
昔から繰り返された、幼子をあやすような優しい動き。
「手のかかる妹、俺を振り回す幼馴染。そのどちらでもない。じゃあ何かと言われれば困るんだけど、隣からいなくなったらきっと寂しいと思う。俺は、ずっと傍で君を見ていたいから」
シャツに押し付けていた顔を上げると、柔らかなハンカチが私の目元を拭っていく。
押し当てられた布がなくなると、穏やかな微笑みを浮かべた彼の顔が見える。
「君の未来に俺がいたのなら嬉しい。二十歳を迎えたら一緒にお酒が飲めたら、どこか知らない場所へ出かけて行って笑い合えたら、その未来はとても魅力的だ」
少し屈んで視線を合わせるその動きは、子どもに対する仕草と同じはずなのに。
もう、いつも通りの彼には見えなくなっている。
「だからね、ルカ。君が卒業して、先生と生徒の関係じゃなくなったら、君の返事を聞かせてほしい。少なくとも俺はずっと、君だけを見続けてきたつもりだから」
柔らかく笑うその仕草も、私を繋ぎ止める指の動きですら、私の鼓動を早めるには十分だ。
手のひらを握り返すのは少し恥ずかしいから、彼の指をきゅっと握って、また彼の胸に顔を隠した。
知らない彼が怖かったはずなのに。
夕陽の遮られたこの部屋では、もう未視感は感じない。
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