あの後、その場で『人柱アリス』についての予測が始まりそうになったが、結局のところ、起こるまで分からないし、それよりは凛歌の欠片を探していった方が建設的だという結論に落ち着いた。
さくさくと、砂を踏みしめる。
青い海、白い砂浜と言えば夏の定番だが、海は暗々しく蒼く、白い砂浜は妙に硝子質で無機質。
おまけに、酷く寒かった。
パールが、懐を探って小瓶を取り出す。
先程の、喋る薬が入っていた瓶だ。
「ちょっと下がって。できればもう少し、そこの岩の後ろあたりまで。」
僕とアマルが下がると、パールはその瓶を投げ上げた。
次の瞬間、瓶は本来の大きさ・・・僕らから見たら、超巨大瓶となって目の前に屹立した。
アマルがポシェットを探り、小さな玩具のような梯子を取り出す。
それを投げ上げると、瓶の口まで届く梯子となった。
もう、なにも驚くまい。
僕とアマルが入った瓶を、パールがずりずりと海まで押しやる。
最後は蹴りを一発入れて瓶を『出航』させると、兎ならではのジャンプ力で瓶の口に取り付き、中に落ちてきた。
「ふぎゃ・・・!」
どうやら、きちんと着地する予定だったようだが、ゆらゆら揺れる瓶の中、バランスを崩したのか、べちゃりと瓶の底に叩きつけられた。
「ふ・・・ふぇ・・・。」
相当痛かったのか、額を押えて涙目になるパール。
視線に気づいたのか、ふるふるふるっ、と頭を振る。
「・・・な、泣いてないからな!?泣いてなんか、ないからな!?いくらここが、『涙の海』だからって・・・!」
ぶつけた額をヨシヨシと撫でると、白い耳が機嫌良さげにひょこひょこと揺れる。
うん、可愛い。
「ハンカチでもあったら、周りの水で冷やせるのに・・・。」
呟いた僕に、二人が奇妙な視線を向けた。
「・・・・・・やめた方が、いいと思うわ。」
アマルが言う。
「ここは、『涙の海』だから。寂しがりの凛歌が、異端の凛歌が、弱い凛歌が、顔で泣かず心で泣いて、溜まってしまった涙でできた海だから。」
「特に、深い部分は古い涙だ。とても、苦痛の強かったころの涙。強い酸になった冷たい涙。触れれば溶けてしまうよ。」
瓶の底に触れさせていた手を、慌てて引っ込める。
「そんなに慌てなくても、瓶底越しに触れたくらいじゃ溶けはしない。だが、浅瀬であっても海水には触れようとしない方が賢明だよ。」
パールが言う。
それきり、暇なのか黙ってしまった。
「ねえ、パールは凛歌に近い年なのに、なんでアマルはそんな小さな格好なの?」
沈黙に耐えかねて、質問を投げかけてみる。
暇そうに瓶の外の景色を見ていたパールと暇そうに僕の尻尾を触っていたアマルが、こちらを見た。
「パールの方が、古く強い感情だったからよ。」
アマルが答える。
「ねえ、帯人。凛歌はね、貴方に逢うまで、願望なんて何も持っていなかったの。望みの全くない人間、それが『月隠 凛歌』という人間だった。」
穏やかに、アマルは言う。
見た目に反して、酷く大人びた口調だった。
「貴方に逢うことで、凛歌は初めて願望を持ったの。そばにいてほしい、そばにいさせてほしい、触れたい、触れ合いたい、愛したい、愛してほしい・・・ずっと一緒にいたい。ってね。私は、つい最近生まれた感情ってわけ。だから、前から持っていた感情であるパールよりも、幼い外見をしているの。」
言われて、パールに目をやる。
彼女がどんな感情をつかさどる存在なのか聞いてみたかったが、たぶん『そのうちわかる』とあしらわれるんだろう。
「そろそろ、岸に着く。その先に、『奇譚図書館』がある。ボク達が居場所を把握している『欠片』の中で、唯一と言っていいほど、ボク達には無害であるだろう『欠片』がいる場所。それが、『奇譚図書館』だ。」
パールが言うと同時に、瓶全体に振動。
岸に、ついたのだ。
瓶から這い出て砂浜に降り立つ。
砂浜が視線の先で終わっていて、草原になっている。
草原の中に、ぽつんと洋館風の建物が佇んでいた。
近づいて、ドアにかけられた銀のプレートを読む。
『奇譚図書館』、その下には『開館日・・・ほぼ毎日』『休館日・・・満月の夜、館長の体調が悪い時』そう、記されていた。
やたらと重いドアを押して、中に入る。
入ってすぐのところがテラス状になっていて、上下左右を臨めるようになっていた。
洋館風の建物は決して小さくはなかったが、決して今目にしているこれが入っているとは思えなかった。
無限。
無限が、ここにもあった。
下を見ると無限に書架が続き、上を見るとさらに無限に書架が続いている。
左右を見ても、無限に書架が続いている。
その書架の終わりは無限に向こう側で、さらに別の書架が無限数に続いているのだ。
奇妙なことに、書架に並んでいるのは書物ではなく、なぜか全て卵なのだ。
目眩がした。
「無限を見続けるのは、非常によろしくない。精神に異常をきたすぞ、少年。」
声がして、見上げる。
テラスの左右には階段・・・螺旋階段があって、それが上下に向かって無限に伸びているのだ。
僕が立っているテラスより少し上、螺旋階段の段の一つに、その人物は腰かけていた。
白い肌に、薄茶色の髪。青い目がこちらを見ている。
カフェラテ色の燕尾服に包まれた体躯は、凛歌より少し小さいように思えた。
「ようこそ、『奇譚図書館』へ。わたしはここの館長を務める『ハンプティ・ダンプティの凛歌』。知識と記憶の管理人だ。私のことはそう・・・『ダイナ』とでも呼んでおくれ。」
やや時代がかった口調で、『ダイナ』が言う。
『ダイナ』は、凛歌が小説の中の『ハンプティ・ダンプティ』に与えた名前だ。
なんでも、『鏡の国のアリス』のラストシーンで、『ハンプティ・ダンプティ』の正体がアリスの飼い猫である『ダイナ』であったことが明かされるところからとったのだとか。
「ここは、『月隠 凛歌』が所有する全ての知識、物語、記憶を保管する場所。おいで、お三方。君らが欲する記憶の在処に案内しよう。」
ぴぃ、と口笛を鳴らすダイナ。
目の前に、畳二枚を並べたくらいの大きさの白い板が飛んでくる。
「乗るといい。この『奇譚図書館』内を歩いて目的地に行こうとすると、少々骨だからな。」
よく見ると、ダイナの爪には精緻なネイルアートが施されている。
それを見て僕は、イースターエッグを連想した。
板に乗って暫し、僕たちは目的の書架の前に立つ。
目の前の書架には、白、灰色、黒、オレンジ色、水色、紫陽花色・・・様々な色の卵が安置されていた。
「黒い卵は、『小鹿』に回されて廃棄される卵だ。触らないように。」
言いながら、ダイナは書架の中から黒緑色の卵を選び出し、僕に差し出す。
「触れてみるといい。凛歌が『あの男』に出会った経緯の、記憶だ。」
恐る恐る、黒緑の卵を受け取る。
次の瞬間、苦痛を覚えるまでの大量の情報が、頭の中を駆け巡った。
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