「人生は交錯する大きな環……その認識は往々にして正しい。おまえや僕のような『例外』を除けばね」
 彼は湖の底にいた。ふわりふわりと空を飛ぶように揺蕩い、喋るその口から泡は出ない。声は水の中だというのにやけにはっきりとしていた。
 俺は柔い泥に足を一歩一歩沈めながら、その背中を追っていく。
「例外、ねえ」
 話しても俺の口から泡が出ることはない。息苦しさも感じず普通に喋ることができるこの状況は、確かにどう考えても普通ではない。
 ふと、あの店長が言っていたことを思い出す。
 ──君は今、極めて特殊な状態だ。ペンもインクも持たないが、他人の物語の中でなら意識が保てる。その気になれば『作者』と直接会って話をすることもできるだろう。……ここから先は君次第だ。
「俺が例外なのはわかるけど、あんたもそうなのか?」
「そうだよ。だってさ、おかしいと思わない?」
 彼はぴたりと動きを止め、俺の方を振り返る。その体には、現実世界では絶対に見ることがないであろう不思議な色が滲んでいた。
「僕はもう死んでいるのに、まだ『消えない』んだよ?」
「……」
 彼は自分自身を、インクの残りかすだと言った。
 寿命を満了せずに死んだとき、通常ならペンと一緒に消えるはずのインクが残る場合がある。ペンはもう持たないので書くことはできないが、残ったインクは存在を形成して死人を形作るのだ、と。
「俺は幽霊なんて信じないタチなんだけどな」
「僕が幽霊だって言いたいの? ……まあ、そうだね。今度こそ僕は幽霊だ」
 おどけるような調子とは裏腹に、その目は心做しか悲しそうに見えた。その横顔に息が詰まる。何と声をかければいいのかわからなくなった。
 しかし次の瞬間にはその色は引っ込んでいて、代わりにどこか怪しむような視線が飛んでくる。
「というか、僕からすればおまえの方が信じられないね。ペンもインクも持たないくせして生きている、だって? そっちこそ幽霊なんじゃないの?」
「勝手に殺さないでくれよ。俺はこの通り……生きている人間だよ」
 声は段々と弱々しくなった。
 彼は少し呆れたように軽く溜め息を吐く。
「人間って言うにはちょっと無理がありそうだけどね。それにしても、どうしてそうなったのさ」
「『この世には、いつだって椅子が一つ足りない』」
「は?」
「知り合いがそう言ったんだ。どうやら俺は相当な外れクジを引いちまったらしい」
「はあ……よくわからないけど、ご愁傷様」
 彼は俺に背を向けて上を仰ぐ。そこにあるのは空ではなく、ゆらゆらと陽光を散らす湖面だ。ちらり、と紅葉の影が見えた。かなり遅くに散ったものらしい。赤い葉の大半は既に、俺が踏みしめるこの泥の上に沈んでいる。
「なあ、あんたはどうしてこんな水の中にいるんだ」
「僕はここから離れることができないんだ」
「地縛霊ってやつか?」
「地縛霊って言うな。理由はよくわからないけど……まあ単純に、離れたくないのかもしれないね。外にはあまりいい思い出がないから」
「……ずっと気になってたんだけど、あんたはどうして幽霊になったんだ」
 問うと、彼は一瞬きょとんとした表情になったのち、「それ、訊くんだ?」と挑発するような薄い笑みを浮かべた。
 彼はぶわりと飛び上がり、水面近くまで浮上した。浮いていた紅葉を取ろうとしているらしい。手を伸ばしながら、彼は言う。
「寿命を満了せずに死んだとき──それがどういうときだか、わかる?」
 ──質問を質問で返すなよ。
 彼の意図が汲み取れなかったが、とりあえず少し考えてみる。
「……体に余力を残して死んだとき……とか? 交通事故とか、そんな感じの」
「いい線だね。だけど残念、事故や病気で死んでも僕のようにはならない。
 正解は自殺。自殺した人は霊になるって、あれほんとなんだよ」
 瞬間、ざあ、と湖面が波立った。どうやら外でかなり強い風が吹いたらしい。彼の手の先わずか数センチまで迫っていた紅葉は流され、波のどこかに消えてしまった。
「……残念」
 彼はそれだけ呟いた。逆光で表情は見えない。
 俺はハッと我に返る。
「お、おい待てよ! てことは、じゃああんたは、」
「──余計な話をしすぎた。そろそろ本題に入ろっか」
 彼の目が俺を見た。その目がいつになく真剣であることに気がつき、俺は喉まで出かかった言葉と一緒に生唾を飲んだ。
「もう一度訊くよ、『少年』。──大切な人に会いたいか?」

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  • 非営利目的に限ります
  • この作品を改変しないで下さい
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[小説]桜野零

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投稿日:2023/02/22 18:18:36

文字数:1,835文字

カテゴリ:小説

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